1月7日(日)主日礼拝・新年家族礼拝(公現後第一主日)

 

前奏

 

招きの詞 (詩編100:1-3)

全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

喜び祝い、主に仕え

喜び歌って御前に進み出よ。

知れ、主こそ神であると。

主はわたしたちを造られた。

わたしたちは主のもの、その民

主に養われる羊の群れ。

  

頌栄 28番(21)あるいは545番(1954年版)(→讃美歌21)

 

(罪の告白)

あわれみ深い父なる神よ

わたしたちは無知と弱さの故に、また故意に、思いと、言葉と、行いによって、あなたと隣人に対して罪を犯しました。

わたしたちは、お与えくださったあなたの愛と、わたしたちのうちに与えられている神のかたちを傷つけました。

これらの罪のゆえにわたしたちはみ前に悲しみ、恥じ、悔いています。

神は真実な方ですから、わたしたちが罪を言い表すとき、主イエス・キリストのあがないの故に、わたしたちの罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。今、わたしたちは自らの生活をかえりみて、これから1分間の沈黙のうちに、それぞれ自分の罪をみ前に覚えて祈ります。

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わたしたちの罪のために、十字架で死に、よみがえられた御子イエス・キリストの故に、わたしたちのいっさいの罪をお赦しください。

主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

 

讃美歌 368番(21)(→讃美歌21)

 

聖書 使徒言行録4章8-12節

 
 

 ルカによる福音書2章21節

 

 

(祈り)

わたしたちの造り主であられる、天の神さま

今朝もわたしたちに命を与え、新しい年の最初の礼拝に来ることができるようにしてくださいましたことを感謝いたします。

見えざる、永遠にいますあなたを仰いで、共に礼拝をささげさせてください。

あなたを讃美いたします。

あなたはわたしたちを造られ、息を吹き入れられ、生きる者としてくださいました。しかし、あなたに背いて生きることの多い者でございます。わたしたち罪ある者を、十字架によって救ってくださいましたことを、感謝いたします。

今年も、あなたからの恵みと励ましに支えられて生きていくことができますように、お願いいたします。

戦火の中にいる地域の人々のことを思います。一日も早く終わる日が来ますようにお願いいたします。世界中の多くの地域で、平和が保てなくなっていますが、この時代、世界をどうか導いてください。

能登半島地震による、北陸地方の大きな地震の被害を受けた人たち、また教会のために、励ましをお祈りいたします。

これから一年の信仰生活の上に恵みと励ましをお祈りいたします。

ここに集う人々の家庭生活をどうか導いてください。

一人暮らしの人たちの生活も豊かに導いてください。

病気の人たちを支えてください。

施設で新年を迎えた姉妹と共にいて支えてください。

これからの礼拝を祝福してください。

語る者を強め、聞く人たちの心を開いてください。

あなたが、一人一人を愛し、造られた者の本来の喜びを与えてください。

感謝、願いを、御子主イエス・キリストのみ名によって、み前におささげいたします。アーメン。

 

説教  「イエスの名の意味

 

(こどもの方へ)

 クリスマスでイエスさまのお誕生を祝いました。神の子が人として生まれられてから、8日経って「割礼の日」という日が来た時、この方は名前が付けられました。イスラエルの決まりで、みんなそうしていたのです。これは、律法に従ったということです。イエスさまの家の人は信仰深い人たちだったことが分かります。そのあとで、律法に従って神殿に、律法で決められた、いけにえのささげものを持って、イエスさまを連れて行ったことが書かれています。イエスさまが罪をつぐなういけにえのささげものになってからは、山鳩とか家鳩や牛や羊をいけにえにささげるということはしません。イエスさまの十字架によって、罪がゆるされるようになったのですから。赤ちゃんを教会に連れていって、小児洗礼を受けさせる人もいます。赤ちゃんの罪の赦しを願って、将来神さまを信じて、幸福になりますようにということを願うということです。

 そして、この日、イエスさまに、というのは変ですが、まだ名前のなかったこの赤ちゃんに、イエスという名前が付けられました。この名前は、マリアさんが考えた名前ではなく、赤ちゃんが生まれる前のもっと前、妊娠する前に、神の使いである天使によって、命じられていた名前でした。「これは、胎内に宿る前に天使から示された名である」と書かれています。このことは、ルカによる福音書1章31節に書かれています。少し前の1章26節から読んでみます。「六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい』」(ルカ1:26―31)。

 名前にも意味があります。皆さんの名前にも、意味があると思います。どういう意味があるのか、お家の人に、後で聞いてみてくださいね。誰がつけたのかな。

 イエスという名前は「救い」という意味です。日本語ではイエス、新約聖書のギリシャ語ではイエースース、英語ではジーザスです。この名前はイスラエルではよくある名前でした。でも、イエスさまにぴったりの名前ですね。マリアさんたちは、他の名前にすることもできましたが、父なる神の言われるとおりに、この名前を付けました。わたしたちはこのお話から、マリアさんが神さまの言われることを受け入れたので、神の御子がお生まれになることができ、その赤ちゃんに「イエス」という名前が付けられたことを知ります。

 このように、神さまのみ心も、人を通して行われることが多いのです。ですから、みなさんも、神さまに用いられる人になってほしいと願っています。

  

讃美歌  280番(21)あるいは121番(1954年版)(→讃美歌21)

 

(おとなの方へ)

 マリアとヨセフが、主イエスに対して、律法のとおりに8日目に割礼を施し、名前をつけたことが書かれていました。このように律法に従うことによって、こどもの罪がゆるされ、元気に育ちますように、と願ったのでしょう。日本でも、こどもが元気に育ちますように願うお祭りはあります。雛祭りも、子どもに付く病気や汚れを、山鳩や家鳩ではなく、雛人形に代わりに負わせて川に流した、というのが起源と聞いたことがあります。

 イエスさまを通して父なる神を信じるキリスト教では、このように律法によって、こどもの罪が赦され、元気に育ちますようにと、願うことはしません。また、男の子に割礼をすることもしません。割礼は神の民の印と考えられていますが、どうしてそうなったのか、聖書には二つの起原が載っています。

 一つは、創世記17:1-14節です。「アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。『わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。 わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。』アブラムはひれ伏した。神は更に、語りかけて言われた。『これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。 わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。 わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼らの神となる。』神はまた、アブラハムに言われた。『だからあなたも、わたしの契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も。 あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。 包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。 いつの時代でも、あなたたちの男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆、生まれてから八日目に割礼を受けなければならない。 あなたの家で生まれた奴隷も、買い取った奴隷も、必ず割礼を受けなければならない。それによって、わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる。 包皮の部分を切り取らない無割礼の男がいたなら、その人は民の間から断たれる。わたしの契約を破ったからである』」。

 もう一つは、出エジプト記4章24―26節です。「途中、ある所に泊まったとき、主はモーセと出会い、彼を殺そうとされた。 ツィポラは、とっさに石刀を手にして息子の包皮を切り取り、それをモーセの両足に付け、「わたしにとって、あなたは血の花婿です」と叫んだので、主は彼を放された。彼女は、そのとき、割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである」。

 アブラハムとモーセでは、時代が全然違います。割礼は、紀元前538年、バビロン捕囚から帰還してから特に大事にされるようになったと言われますので、他民族に同化しないようにということであったと思われます。カナンのペリシテ人もバビロニアの人も割礼をする習慣が当時はなかったようです(今はイスラム教になった多くの人が同じように割礼をしています)。実は、世界の中で、割礼をする人たちは多くいるようです。中には、女の子にも割礼をする人たちもいるようです。ただ女児の場合、死亡率が高いと言われます。旧約聖書の「エズラ記」、「ネヘミヤ記」には、他民族との結婚を禁ずる厳しい命令が出てきますが、バビロン捕囚からふるさとに帰った人たちが、捕囚にならずに残った人々が多数、他民族の人と結婚していたのを嘆いて、厳しい禁止が始まりました。それまでは、他民族の人と結婚してもよかったことが分かります。

 キリスト教では、パウロの苦労の甲斐があって、割礼はありません。ルカによる福音書の後の箇所に、こどもの罪の贖いのため、犠牲の動物を持って行って、神に備えることが出ていますが、この幼な子が、いずれ人間の贖いになりますので、動物をささげるということも、教会ではしません。

 そして、「イエス」と名付けなさいという天使の言葉のとおりの名前を付けた、ということですが、マリアのおかげで、という部分もあり、マリアに対する尊敬の気持ちが大きくなっていったことを理解できるような気もします。このイエスという名前の意味は、先程申しましたように「救い」、「主は救い」という意味の名です。ヘブライ語でイエシュアーまたは縮めてヨシュアで、新約聖書はそれを「イエースース」と音訳しています。

 この「救い」という意味のイエスという名付けの箇所に、教会暦で、使徒言行録4章8-12節が選ばれているのは、実に適切なことと思われます。主イエスの名が「救い」を意味しているとしても、その「救い」の内容はこのようなものです、と述べているところです。使徒言行録4章8-12節、これは、ペンテコステ後、程ない頃のペトロの演説、説教です。10節後半から読んでみます。「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です」(使徒言行録4:10b-11)。聞いている人たちが暗記している旧約聖書を引用して、説教がなされています。

 聞いている人のことは、使徒言行録4章5節、6節に、出てきます。「議員、長老、律法学者たち、大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった」。大祭司一族の、ヨハネとアレクサンドロは、どういう人物かは不明で、ここにしか出てこない人です。主イエスの救いについて引用されているのは、詩編118編22節です。「家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった」。

 この小平教会の東側向いに新築している家があり、最初からよく見ることができました。コンクリートを流して固めた上に角材の土台を置きます。昔、石造りの家を作る場合、いろいろな石で四角形を作り、これをぐらぐらしないように、しっかり止める最後の石を慎重に選んだことでしょう。多くの石のうち、これは使えない、これは使えそう、と選り分け、要らない石は遠くに捨てます。そのように、神さまから捨てられたように見えた石が、世界の隅の親石になった、ということです。この詩篇を読んでみますと、家を建てるために捨てられた石とは「イスラエル」のことを指しているようにも思われます。バビロン捕囚のように、世界の造り主であられる神から一度捨てられた国イスラエルを、いつか神は隅の親石にしてくださるということです。ペトロは、みんなが知っているこの言葉を、神から捨てられたように見えるあのナザレのイエスを、神はイスラエルと他の人たち全員を救う親石としてくださったということを言っています。大胆な信仰告白の演説、説教です。神である方が、人間の罪のために一度死んでくださり、そして救ってくださるということです。最初の教会において、十字架とそれにもまさる復活、そして癒しということが中心にあったことが知らされます。主イエスの名の「救い」とは、「十字架と復活と深い意味での癒し」であることは、今のわたしたちにとっても、大切なことです。

 家というギリシャ語は「オイコス」と言い、オイコスという言葉からオイコノミー、エコノミー(家政学、経済学)という言葉が生まれたと言われます。家をすばらしいものにするために、経済だけが必要ではありませんが、経済も大切です。反対に、立派な会堂であっても、観光客しか来ないような、信仰者のいない教会も良い教会とは言えません。教会という家を、イエス・キリストを親石として、しっかりと守っている姿を、天の神も喜んでくださることと思って、励んでいきたいと思います。 

  

(祈り)

今年も、このように新年家族礼拝を守ことができ、感謝いたします。

この教会に来たことのあるすべての人の魂をあなたが御守りくださいますよう、お祈りいたします。

教会という家の家族の者として、どうかこの家を支えて下さいますよう願います。内的にも、外的にも、しっかりした、暖かい自分の家と呼べる家となりますように、お願いいたします。

また、ここに集った一人一人の今年の人生設計の中で、あなたが大事な親石となってくださいますよう、お願い申し上げます。

わたしたちの先に何が待っているかわかりませんが、あなたを信頼し、世のために、家族のために、自分の信仰のために、そしてあなたのために、今年も生きることができますように、お願いいたします。

この感謝と願いを、尊き神の御子主イエス・キリストの御名によって、御前におささげいたします。

アーメン。

 

讃美歌 276番(21)あるいは346番(1954年版)(→讃美歌21)

     

日本キリスト教会信仰の告白(→こちらからご覧になれます)

 

聖餐式 

讃美歌 77番1,2,3節(21)あるいは206番(1954年版)(→讃美歌21)

  

奉献  

讃美歌 65-2番(→讃美歌21)

献金

主の祈り(→こちらからご覧になれます)

 

頌栄 24番(21)あるいは539番(1954年版)(→讃美歌21)

 

派遣と祝福

 

後奏

 

※今週の祈りは「今年の信仰生活を覚えて」です。