1月14日(日)主日礼拝 公現後第ニ主日
前奏
招きの詞 (詩編100:1-3)
全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
喜び祝い、主に仕え
喜び歌って御前に進み出よ。
知れ、主こそ神であると。
主はわたしたちを造られた。
わたしたちは主のもの、その民
主に養われる羊の群れ。
頌栄 28番(21)あるいは545番(1954年版)(→讃美歌21)
(罪の告白)
あわれみ深い父なる神よ
わたしたちは無知と弱さの故に、また故意に、思いと、言葉と、行いによって、あなたと隣人に対して罪を犯しました。
わたしたちは、お与えくださったあなたの愛と、わたしたちのうちに与えられている神のかたちを傷つけました。
これらの罪のゆえにわたしたちはみ前に悲しみ、恥じ、悔いています。
神は真実な方ですから、わたしたちが罪を言い表すとき、主イエス・キリストのあがないの故に、わたしたちの罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。今、わたしたちは自らの生活をかえりみて、これから1分間の沈黙のうちに、それぞれ自分の罪をみ前に覚えて祈ります。
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わたしたちの罪のために、十字架で死に、よみがえられた御子イエス・キリストの故に、わたしたちのいっさいの罪をお赦しください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。
讃美歌 204番(21)あるいは54番(1954年版)(→讃美歌21)
聖書
コロサイの信徒への手紙3章12-17節
ルカによる福音書2章42-52節
(祈り)
御在天の父なる神さま
あなたの御名を賛美いたします。
この一週、能登半島地震による被害と、その苦しみが継続していることを知らされています。どうか、被害が大きくなりませんように、工夫、支援している人たちに力を与えてください。
今年、年始からいろいろなことがありましたが、このような中にありましても、あなたの御前で礼拝をする、静かなひと時を与えてください。
わたしたちの心をあなたに向けてください。
あなたのみ前で、贖い主による恵みを受け、悔い改めて、今週もあなたのために生きる者としてください。
先日は、東京中会日曜学校教師研修会に、日曜学校教師全員が参加し、学ぶことができましたことを感謝いたします。
教会のこどもたちのことを思います。
日曜学校の生徒たちの心を守ってください。信仰の御守りと成長を祈ります。
日曜学校教師の人たちの信仰と奉仕の上に御守りと恵み、喜びをお祈りします。
今年の日曜学校を導いてください。
こどものための説教も導いてください。
お一人お一人に適切な聖霊の御働きをお祈りいたします。
わたしたちの家庭はさまざまですが、どうかその上にあなたの祝福をお祈りいたします。
試練の中にいる人たちをどうか支えてください。
心の病気、体の病気の人たちを、いやしてください。
あなたに感謝を感じなくなった人たちに、あなたに救われたことの大きさを、また教えてください。
これからの礼拝を導いてください。
語る者の口を開き、聞く人たちの心を開いてください。
愛と信仰の喜びを豊かに与えてください。
感謝、願いを、御子主イエス・キリストのみ名によって、み前におささげいたします。アーメン。
説教 「家庭の中にも」
(こどもの方へ)
イエスさまが12歳の時のことです。それまでも、イエスさまのご両親はイエスさまを連れて、過越祭のために、エルサレムに行っていたと思います。ナザレから遠くのエルサレムに行くのに、こどもを置いて出かけることはできなかったでしょう。この旅は、近所の人たちと一緒の団体旅行であったようです。しかし、12歳になると、その頃、信仰的には一人前のおとなになったとされていたので、イエスさまはもうお供をしてというより、その一員として過越祭に参加されたのです。
さて、祭りの期間が終わって、帰ることになりました。イエスさまには弟や妹がいたようですが、両親は、イエスさまは一緒に帰る集団のどこかにいると思っていました。一日過ぎても、イエスさまが自分たちの所に帰って来ないので、親類や知り合いの人に聞いて、イエスさまがその中にいないことに気づきました。
さあ、大変です。イエスさまを捜しながらエルサレムに引き返しました。そして、三日間捜し回って、やっと見つけました。神殿の境内におられたのです。イエスさまは迷子になり、困っておられたでしょうか。そうではありませんでした。イエスさまの周りには偉い学者の人たちのが座っていました。イエスさまは、その人たちの話を聞いたり、質問したりして議論をしていました。神さまのことや神殿のことについて、おとなのような質問をしたり、意見を言ったりしていたのでしょう。この賢い子はなんだろうと、学者の人たちは、みなびっくりしていました。
両親はイエスさまのそばに行って、叱りました。「両親はイエスを見て驚き、母が言った。『なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。』」(ルカ2:48)。迷子のこどもを見つけた親として当然の言葉と思われます。それに対して、イエスさまは、「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と答えられました。
この答えをどう思いますか? 両親に対して失礼だと思いますか。考えてみれば、イエスさまは神の御子ですから、父なる神の家、ご自分の家である神殿にいることは不思議ではありません。しかし、この時、「両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった」と書かれているのです。ヨセフさんもマリアさんも、イエスさまがお生れになる前にみ使いに言われたことを忘れてしまったのでしょうか。それを忘れさせるほど、普通の生活が続いていたということでしょうか。両親は、忘れたわけではないでしょう。普通の生活が続き、このまま無事に暮らしていきたい、と願うようになっていったのかもしれません。しかし、み使いに言われたことの意味がすべて分かっていたわけではないのでしょう。マリアさんは「これらのことをすべて心に納めていた」と書かれています。その意味はだんだん分かってきて、はっきり分かったのは、十字架の時、またその後です。ルカによる福音書の2章35節に「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」という言葉がシメオンさんから、告げられていました。マリアさんは自分の息子をそのような形で失うというつらい思いをすることになります。また、学者の人たちには印象深かったこの12歳の少年は、後に十字架にかかられるために、父なる神から遣わされてきたのでした。それもこれも、わたしたちを罪から救うためにされたことです。
イエスさまは、その後、マリアさんにも、自分の本当の父ではないと言ったヨセフさんにも、ナザレの家で、息子として仕えて暮らされたことが書かれています。こうして、静かに、神の救いの準備がなされていったのです。そのことを思って、感謝いたしましょう。
讃美歌 289番(21)あるいは122番(1954年版)(→讃美歌21)
(おとなの方へ)
今日の箇所は、「聖家族」と言われる箇所です。ラテン語で「サクラファミリア(Sacra Familia)」と言い、絵画などにもよく描かれます。聖家族は、わたしたち人間の作る家族の理想とも言われます。しかし、今日の箇所を読んでいかがでしょうか。なにやら、怒ったり、主イエスへの無理解が示されています。聖書に出てきます聖家族が、主イエスのことを完全に理解していたわけではなく、神の御計画に逆らおうとしたり、御子のことを誤解したり、それでも理解しようと努力し続け、最後に大きな痛みと喜びを伴って、信じるようになっていったことを知らされます。これは、わたしたちには、励ましが与えられることです。
家庭の中に主に入ってきていただかなければ、罪人の集団である家庭の根本的問題は解決されないことが多いでしょう。こどもの信仰教育については、日曜学校や教会も大事ですが週に一度ですので、毎日の家庭が主です。家庭において、時間を決めて聖書を読むとか、お祈りをすることよりも、普通の生活の折々に、神さまのことを教える、またいろいろなことに対する疑問に正直に信仰的な答えをすることが大事だと思います。
しかし、あの聖家族であっても、主イエスのことは理解することが難しかったことを思うと、神の御子と父なる神の関係など、伝えることの難しさを思います。ずっと心に納め、考え続けるために、日曜日ごとの礼拝はありがたいものです。
コロサイの信徒への手紙3章12節-17節は、クリスチャンとなった人たちの家族、教会という家族の理想として読むことができます。教会という家族も、聖徒の家族として、聖家族なのです。コロサイの信徒への手紙3章12節に、あなたがたは「聖なるもの」とされた、という言葉があります。「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」と述べられています。そして、御子によって父なる神に罪を赦していただいたのですから、赦し合いなさい、というのです。また、御子によって父なる神から愛される者になったのだから、その愛を溢れ出させるように勧められています。
その具体的行為が、「慈愛」、「謙遜」、「柔和」、「寛容」などです。この神との平和が「キリストの平和」と言われています。この平和は、戦争がないという相対的平和とはちがうものです。また、自然の内に身を置いた時の静寂な平和とも違う、神に罪を赦されたことからくる平和です。平安と言ってもよいものですが、人格的神さまからのものなので、人との平和にもかかわるものなのです。神との平和、自分との平和、そこからくる人との平和です。国が平和の時も必要なことです。しかし、まず戦争がなくなるように努めなければならない国、時もあります。
また、御子によって、心の平和が与えられるようになったことから、「感謝」と「讃美」をするように、勧められています。その感謝して心から神をほめたたえるために、詩編と賛歌と霊的な歌を使うようにと書かれています。これらを、この家族は大切にしなさいということです。詩編は旧約聖書にある詩編のことでしょう。過越祭への旅をする時、この詩編に節(ふし)を付けて歌ったようです。昔のエルサレムとの往復の旅の、楽しいばかりではなくつらい時も、この詩編の歌は一緒にあったのです。ジュネーブ詩編歌という、詩編に節が付けられた歌もあります。詩編は、節を付けても付けなくても、神に対する赤裸々な祈りで、祈りについて教えてくれるものです。「賛歌」とは、聖書の中に散らばって収められている神に関する教理的なキリスト賛歌のここと言われます。初期の教会の中で教理の内容を歌にしたものが歌われていて、それが聖書の中に残っているのです。例えば、コロサイの信徒への手紙1章15―20節などです。「霊的な歌」は、たぶん、霊的教育、霊的絆のために創作した歌のことでしょう。このように、教会に与えられた、信仰的、知的、情緒的な歌を学び、歌うことによって、和解者キリストがますますわたしたちの家に住んでくださるようになりますように、願っています。
(祈り)
天の父なる神さま
キリストによって罪が贖われ、あなたと和解した人々が、日々の生活の中において、慈愛、謙遜、柔和、寛容を、実践してゆけますように、愛を注ぎ続けてください。
家庭の中に、問題、悩みがある人たちがありましたら、どうか、キリストの心を持って対処させてください。また、一人一人に、キリストの十字架によって贖おうとされた大切な者として、接することができますように。
義にして愛である神さま、社会は移り変わっていきますが、あなたのしてくださいました大きな記憶に支えられて、教会の人たちすべてを光栄ある教会の遺産を受け継いでいく者としてください。
わたしたちの教会、また一人一人の家に、あなたが住んでくださり、あなたと共にある励ましを与え続けてください。
この感謝と願いを、神の御子主イエス・キリストの御名によって、御前におささげいたします。
アーメン。
讃美歌 546番(21)(→讃美歌21)
使徒信条(→こちらからご覧になれます)
奉献
讃美歌 65-2番(21)(→讃美歌21) 献金
主の祈り(→こちらからご覧になれます)
頌栄 24番(21)あるいは539番(1954年版)(→讃美歌21)
派遣と祝福
後奏
※今週の祈りは「日曜学校の生徒と教師を覚えて」です。く