1月21日(日)主日礼拝 (公現後第三主日)

 

前奏

 

招きの詞 (詩編100:1-3)

全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

喜び祝い、主に仕え

喜び歌って御前に進み出よ。

知れ、主こそ神であると。

主はわたしたちを造られた。

わたしたちは主のもの、その民

主に養われる羊の群れ。 

 

頌栄 28番(21)あるいは545番(1954年版)(→讃美歌21)

 

(罪の告白)

あわれみ深い父なる神よ

わたしたちは無知と弱さの故に、また故意に、思いと、言葉と、行いによって、あなたと隣人に対して罪を犯しました。

わたしたちは、お与えくださったあなたの愛と、わたしたちのうちに与えられている神のかたちを傷つけました。

これらの罪のゆえにわたしたちはみ前に悲しみ、恥じ、悔いています。

神は真実な方ですから、わたしたちが罪を言い表すとき、主イエス・キリストのあがないの故に、わたしたちの罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。今、わたしたちは自らの生活をかえりみて、これから1分間の沈黙のうちに、それぞれ自分の罪をみ前に覚えて祈ります。

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わたしたちの罪のために、十字架で死に、よみがえられた御子イエス・キリストの故に、わたしたちの罪をお赦しください。

主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

 

讃美歌 12番(21)あるいは16番(1954年版)(→讃美歌21)

  

聖書 

ローマの信徒への手紙12章16-21

     

 

マタイによる福音書8章1-13

 

 

(祈り)

御在天の父なる神さま

あなたを賛美いたします。

今日の礼拝にわたしたちが来ることができるようにしてくださり、感謝いたします。

今日もあなたの御子の恵みを受け、感謝と賛美をささげることができますように、祈ります。

キリストの体である教会の大事な総会を、来主日予定しております。

多くの奉仕者の協力によって、資料ができました。

議員の人たちが、健康を与えられ、総会に出席することができますように、御守りください。

どうか、教会について考える時としてください。あなたを宣べ伝え、栄光を現すために、体制を整えて、喜んで歩み出すことができますように、お願いいたします。

各地の教会の上にもあなたのお導きをお願いします。

どうか求道する人々を、教会に招いてください。

世にあって、あなたを求めている人たちを、顧みてください。

地震による苦しみの中にある人たち、またいろいろな理由で苦しんでいる人たち、平安のない人たちを顧みてください。

この礼拝を導いてください。

語る者、聴く者の心を開いてください。

そして、あなたがいますこと、してくださいましたことへの、一同の感謝と賛美をささげさせてください。

感謝、願いを、御子主イエス・キリストのみ名によって、み前におささげいたします。アーメン。

 

説教 「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」

 

(こどもの方へ)

 今日のイエスさまのお話の中に、重い皮膚病にかかっている人が出てきましたね。ある日、重い皮膚病にかかっている人がイエスさまに近づいてきて、病気を治してくださるように、頼みました。イエスさまはその頼みをこころよく聞いて、治してあげました。聖書のころは、重い皮膚病にかかった人は、人のそばに近づいてはいけないということになっていました。重い皮膚病にはいろいろありますが、感染するのではないかとか、見た目が気持ち悪いとかで、人々はさけていました。もし、この病気の人が人に近づいたら、逃げられて、遠くから怒られたでしょう。でも、この人はイエスさまのうわさを聞いて、近づいてきました。まわりにいた人は逃げ出したと思います。でもイエスさまは逃げないでそこにおられました。その人は「あなたは、そうしようと思ってくださるなら、わたしを清くすることがおできになります」とイエスさまへの強い信頼を述べました。すると、イエスさまは、その人に手を伸ばして体に触れ、「清くなれ」と言われました。そうして、この人の重い皮膚病は治ったという話です。

 今は皮膚病の人を嫌ったりしたら、みんなから非難を受けます。実際重い皮膚病の中のハンセン病は感染しない病気だったのですが、感染するかもしれない時は感染しないようにお互いに気をつけることは悪いことではありません。

 しかし、気持ち悪いとか、見た目が変わっているとか、様子が少し変わっているということで、人をいじめたりすることは、現代でもあると思います。そして、そう言われる人にも悪いところがあるのではないか、とか言われたりします。イエスさまは、そういうことはなさいません。イエスさまにとって、気持ち悪い人はひとりもいません。人から言われて腹立たしく思っている人、悲しく思っている人、また自分でも気持ち悪いのではないかと思い始めている人も、イエスさまは逃げませんから、どうか近づいてみてください。

イエスさまは「あなたは清い」とは言ってくださらないでしょう。でも「あなただけが清くないのではなく、いじめている人も、人間はみんな清くないのですよ」と言われるでしょう。そして、イエスさまが「清くなれ」というお言葉を信じて、清くしていただきましょう。それから、あなたを軽蔑した人のことなど、恨まずに、無視して、忘れてしまってください。

 

讃美歌 533番(21)(→讃美歌21)

 

(おとなの方へ)

 ローマの信徒への手紙12章16節には「身分の低い人々と交わりなさい」という言葉があります。「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。」というのですから、これはまず、教会の中の、ということでしょう。今の日本では、人は皆平等とされていますが、身分制度のある時代がありました。初代教会は、最初は貧しい人たちが多かったのですが、次第にローマの裕福な人たち、貴族階級の人たちが優勢になったようです。また、主人に従って来ていて、信仰を持った多くの家内奴隷の人たちがいたようです。

 神の前で平等という時代ではありませんでしたが、平等に罪人であり、イエスキリストによって同じように救われた者であるという、ある平等さが教会の中を支配していたのです。これは、画期的なことでした。しかし、キリスト者となっても、それまでの上下意識から抜け出せない人たちもいたのでしょう。わたしたちも信仰者になった後も、従来の価値観で行動してしまうことがないか、反省させられます。

 主イエスが、当時忌み嫌われていた重い皮膚病を患っている人に手を差し伸べて、その人にさわって望みをかなえてあげられた話を読みました。そして、ユダヤ人の一番汚れている人よりも汚れているとされていた異邦人の願いをきいてあげられたことが、具体的な癒しの二番目に書かれているのです。マタイによる福音書8章5節からの百人隊長の話です。当時ローマ領となったイスラエルのために、ローマから派遣されていた軍隊において、百人の歩兵の長をしている人でした。主イエスは、この百人隊長の家族でも部下でもなく、彼の僕に対する愛情と謙遜で切実な信仰に関心されたのではないでしょうか。8章8節に「すると、百人隊長は答えた。『主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。』」と書かれています。この、主イエスの言葉による救いの表明を、主は高く評価しておられます。そして、「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」と言われたのです。そして、イスラエルの人々の表面的な信仰を悲しむとともに、異邦人がこのような大きな信仰を持ち得ることに驚き、希望を持たれたように書かれています。「言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」。

 世の終わり、メシヤの日に開かれる天の祝宴において、異邦人がかえって信仰の父たちと共に席につき、神の民イスラエルがかえって戸外に追い出され、そこで泣きわめいたり、歯ぎしりするだろう、というのです。「歯ぎしりする」とは、歯と歯をかみしめて、くやしがることです。もっとも、これらの主イエスの言葉は、わが子を怒る時の言い方で、イスラエルにしっかりするように、言われたのかもしれません。よその家の人がそれを聞いて真に受けてはいけないようにも思いますが。

 この「外の暗闇」とは何でしょうか。旧約聖書では、シェオルと言って、神に救われなかった者が死んだ後に行く所です。「陰府」とも訳されますが、聖書の古い時代は、時間の止まった薄暗いところで、苦しむ要素はありません。しかし、だんだん苦しみが増して、地獄に近くなっていき、新約聖書の時代は、ゲヘナという火が燃えている所になりました。マタイによる福音書5章22節では「火の地獄」と訳されています。ゲヒンノム(ヒンノムの谷)から付けられた地獄の名前です。この谷は実際あって、古代にここで、こどもをささげていた凄惨な場所だったので、そのように言われるようになったと言われます。なぜこんなことをしていたのかというと、罪の赦しのために神がいちばん大切なものをささげるように命じられたから、ということのようです。

 ローマの信徒への手紙に戻りますと、12章17節から「だれに対しても悪に悪を返さないように」ということが言われています。自分に悪いことをした人に対して、悪を返してはいけません、むしろ善いことをせっせとしてあげなさい、ということが言われています。立派な行為ですが、そんなことはできない、そんなことでよいのか、とも思われます。問題はその後です。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と主は言われる』と書いてあります。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』」(19-20節)。

 「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」という言葉は、モーセの歌の中に出てくる言葉です。申命記32章35節です。「わたしが報復し、報いをする」と書かれています。申命記の続きを読んでみますと、わたしというのは神(ヤハウエ)で、敵の国民に対するものすごい復讐が書かれています。

いつの日か必ず、神が敵に報復してくださるだろう、というのとです。しかし、わたしたちが、自分に悪を行ったことのある人に善で報いることが、「燃える炭火を彼の頭に積むことになる」とは、そういうふうに読むべきではないと思われます。それは、愛に反する行為ではないでしょうか。少し前のローマの信徒への手紙11章30節から、パウロがこう言っているからです。「あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです」。

 「燃える炭火を枯れ木の頭に積む」とはどういうことなのでしょう。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」と言われています。旧約聖書の中に、「復讐はわたしのすること」について、これと異なった解釈もあります。箴言25章21ー22節です。ソロモンの箴言(補遺)という見出しが付けられているところです。読んでみます。「あなたを憎む者が飢えているなら、パンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる」。つまり、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」とは、善を返し続けることによって、敵は罪悪感でたまらなくなって、和解を求めてくるであろう、ということです。これが主の敵に対する報復であり、あなたはこうして報いられるということうことだと思います。


(祈り)

イエス・キリストの父なる神さま

救われた人の新しい生活について、また教えられましたことを、感謝いたします。

わたしたちを、燃える炭火のような罪の苦しみから救ってくださいましたことを、改めて感謝いたします。

わたしたちに、教会生活が与えられていることも感謝いたします。

教会は、いやしが与えられる場所、暖かい場所でもありますが、訓練を受ける場所でもあります。

あなたから多くの慰め、励ましを受け、神と人に仕える証しの生活ができますように、お願いいたします。

感謝と願いを、救い主、主イエス・キリストの御名によって、御前におささげいたします。

アーメン。

 

讃美歌 394番(21)(→讃美歌21) 

 

使徒信条(→こちらからご覧になれます)

 

奉献  

讃美歌 65-2番(21)(→讃美歌21)  献金

主の祈り(→こちらからご覧になれます)

 

頌栄 24番(21)あるいは539番(1954年版)(→讃美歌21)

 

派遣と祝福

 

後奏

 

※今週の祈りは「第91回教会総会(1/28)を覚えて」です。