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1月28日(日)主日礼拝 公現後第四主日

 

前奏

 

招きの詞 (詩編100:1-3)

全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

喜び祝い、主に仕え

喜び歌って御前に進み出よ。

知れ、主こそ神であると。

主はわたしたちを造られた。

わたしたちは主のもの、その民

主に養われる羊の群れ。 

 

頌栄 28番(21)あるいは545番(1954年版)

 

(罪の告白)

あわれみ深い父なる神よ

わたしたちは無知と弱さの故に、また故意に、思いと、言葉と、行いによって、あなたと隣人に対して罪を犯しました。

わたしたちは、お与えくださったあなたの愛と、わたしたちのうちに与えられている神のかたちを傷つけました。

これらの罪のゆえにわたしたちはみ前に悲しみ、恥じ、悔いています。

神は真実な方ですから、わたしたちが罪を言い表すとき、主イエス・キリストのあがないの故に、わたしたちの罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。今、わたしたちは自らの生活をかえりみて、これから1分間の沈黙のうちに、それぞれ自分の罪をみ前に覚えて祈ります。

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わたしたちの罪のために、十字架で死に、よみがえられた御子イエス・キリストの故に、わたしたちの罪をお赦しください。

主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

 

讃美歌 6番(21)あるいは79番(1954年版)

  

聖書 

ローマの信徒への手紙13章8-10

   

 

マタイによる福音書8章23-27

 

 

(祈り)

御在天の父なる神さま

あなたを賛美いたします。

今日、わたしたちを礼拝にお招きくださり、感謝いたします。

あなたはすべての人の心の中をご存じです。能登半島地震により被害を受けた人たち、避難生活を送っている人たち、支援にあたっている人たちすべての人を、守り、励ましてくださいますよう、お願いいたします。

あなたはいろいろなもので、わたしたちを養ってくださいます。この礼拝において、信仰の糧を与えてください。聖霊の御働きを乞い願います。

わたしたちに、見える教会が与えられていますことを感謝いたします。

ここに集ったすべての人々に、あなたの祝福を与えてください。

今日は教会総会を予定しています。

どうか教会への愛を与えてください。一年をふり返り、また教会に新たな思いで仕えさせてください。

わたしたちは、教会において、教会の遺産の宝、御言葉によって救われました。どうか、感謝をもって、奉仕させてください。

あなたは、わたしたちを御子によって贖われ、御国に入れてくださいました。

どうか、救いを求めている人たちを救ってください。

各地の教会の上にもあなたのお導きをお願いします。

この国にあって、出会うことのできた信仰の仲間に対する愛を、増してください。

教会に来ることのできない人、来ることができなくなった人たちにも、教会を覚えて祈る時を与えてください。

この礼拝を、豊かに導いてください。

語る者、聴く者の心を開いてください。わたしたちに喜びと励ましを与えてください。

あなたが与えてくださいます世にはない喜びと平安を、どうか伝えていくことができますように、教会を導いてください。

感謝、願いを、御子主イエス・キリストのみ名によって、み前におささげいたします。アーメン。

 

説教 「互いに愛し合うことの他は、誰に対しても借りがあってはならない」

 

(こどもの方へ)

 嵐を静めるイエスさま、という話が、聖書の中には時々出てきます。今日のところもそうです。イエスさまと弟子たちが一緒に舟に乗られ、湖を渡ろうとしておられた時、激しい嵐になり、強い風のため、波に飲み込まれそうになりました。舟はぐらぐら揺れて、沈みそうです。どういう状況かわかりますか?ところが、イエスさまはすやすや眠っておられたというのです。そこで弟子たちはイエスさまをゆり起こして、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言いました。すると、イエスさまは何と言われたでしょうか? イエスさまは、「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」と言われました。そして、起き上がって、風と湖をお叱りになると、「すっかり凪になった」と書かれています。凪とは、風がまったくない状態です。大きな波もなくなって、舟の揺れも収まり、湖は静かに穏やかな状態になりました。人々は、「いったいこの方は、どういう方なのだろう。風や湖さえ従わせるとは」と言った、というお話です。

 これは、イエスさまが自然現象に対しても奇跡を起こす方であるということでしょうか。大きな風の害や水害の話はよく聞きます。わたしたちは、被害にあった人たちを気の毒に思いますが、その人たちが罪を犯したから神さまが被害にあわせた、とは思いません。天災が起こることには、原因がありますが、それはそこに住んでいた人たちが特別罪深かったわけではありません。自然の力は大きくて、時に恐ろしいものだと思わされます。

 昔は、風や雨や雪やヒョウをしまっておく倉(建物)があって、それを神さまが管理していると考えられていたようです。しかし、今、すべてのものを支配しておられる方が神さまであるという信仰を持っている人も、風や雨について、そのようには思っていません。

 しかし、わたしたちの人生には、大きな困難がおそってくるということはあります。天災と関係のある場合もありますし、まったくない場合もあります。こどもの皆さんはとくに大変ですね。今、嵐の中にいる人もいるかもしれません。これからおとなになるまで、嵐の時代がやってくる人が多いのです。その時も、イエスさまを信じて、その時を過ごし、乗り切ってくださるように、願っています。

 

讃美歌 557番(21)あるいは302番(1954年版)

 

(おとなの方へ)

 ローマの信徒への手紙13章8節には「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。」と書かれています。キリスト者となった者は、愛することにおいて、貸し借りの帳尻を合わせるような、報いをあまり求めることをせず、無償の愛で愛しなさい(なぜなら神がそうしてくださったから)ということを強調している一方で、キリスト者の社会生活におけるあり方について述べられていると思われるところです。「借りがあってはならない」とはどういうことでしょうか。「借りがある」とは、まず借金のことが思い浮かびます。前の段落では、納税のことが述べられています。これは、社会的な義務を果たすということのようです。国家に対して、税金を納めるべきか、納めるべきでないか、という問題が語られています。

 著者であるパウロは、国家は神によって建てられた、と考えていたようです。「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」(13:1)。国家権力や為政者の権力は、神が与えたものであるというのです。わたしたちはそうは思いませんが、これは、国家は正義を守るためにあるということではないでしょうか。犯罪なども、当人同士で決着をつけ、復讐するのでなく、国家に力を委ねて、裁いてもらっているのだと思います。

 これは、国家への義務を、従来のように恐怖を動機として果たすのではなく、キリスト教的良心をもって、義務を果たしなさいということだったでしょう。そうしますと、このような国家観は、国や権威者が、神の御心にかなわなくなった時は、従わなくてよいということになります。権威者が何の神を信じているかということよりも、善悪の判断を任せるに足りなくなった時、それは従うべき権威ではもうなくなったということです。正常な国家、社会であれば、キリスト者といえども、この世の「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい」(13:7)というのです。

 「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」ということは、教会という社会においても、互いに愛し合うことのほかには、借りがあってはなりません、愛し合うこと以外は、きちんと義務をはたしなさい、ということでもあるでしょう。そして、他者を愛す者は、律法を全うしようとしていることになる、ということが言われています。モーセの十戒である「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかのどんな掟も、結局「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約される、というのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」は、十戒の、第7戒、6戒、8戒、10戒にあたります。どの掟も「隣人を自分のように愛しなさい」ということになるということは、主イエスも、たとえばマタイによる福音書の22章39―40節で言われています。「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法と預言者は、この二つの掟に基づいている」。(この二つの掟とは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と「隣人を自分のように愛しなさい」です。)

 そして「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」と書かれています(ローマ13:10)。姦淫は、二人の愛は成就できても、双方の配偶者に対して悪を行うことです。殺人、盗み、むさぼりも、する人には何らかの理由、事情があったとしても、殺された人、盗まれた人、むさぼり取られた人に対する愛の欠けた行為です。愛の行為は多過ぎるということはありませんが、その他の義務はしっかり果たしなさい、というのです。

 このパウロの手紙から30年ほど後にマタイによる福音書は書かれたのですが、この嵐の中の舟は、ローマ皇帝ドミティアヌス帝の激しい迫害の中で、イエス・キリストに守られている教会の姿であると言われます。今の教会はどうでしょうか。迫害はありませんが、順風満帆とは言えません。伝道の困難な時代精神の中を突き進んでいます。しかし、主は「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」と言われ、守ってくださることを約束してくださるのです。わたしたちは、すべき義務を果たし、互いを大切にして、わたしたちを救ってこの舟に入れてくださった方を信じて、教会生活を続けてゆきましょう。

 

(祈り)

イエス・キリストの父なる神さま

わたしたち一人一人の人生行路の舟も、あなたのみ子の救いとみ名を信じた時から、確かに良い方へとへさきが向き、平安が与えられましたことを思います。

意味のない苦しみの人生から、苦しみのない人生へ、また意味のない苦しみの人生から意味のある苦しみを苦しむことのできる人生へと変えられましたことは、真に感謝です。

教会の中に招かれ、教会生活を中心とする生活が与えられましたことも感謝いたします。

孤独を覚えている人、確かなものを求めている人たちを、教会に招いてください。

毎週の礼拝の準備をどうか導いてください。欠け多い言葉にも、聖霊の風を送って、一人一人の耳に、心に届かせてくださいますよう、お願い申し上げます。

この舟の中で、共に主の業に驚嘆し、賛美し続けてゆけますように、力強い御導きをお願いいたします。

感謝と願いを、救い主、主イエス・キリストの御名によって、御前におささげいたします。

アーメン。

 

讃美歌 392番(21)あるいは281番(1954年版)

 

使徒信条(→こちらからご覧になれます)

 

奉献  

讃美歌 65-2番(21)  献金

主の祈り(→こちらからご覧になれます)

 

頌栄 24番(21)あるいは539番(1954年版)

 

派遣と祝福

 

後奏

 

※今週の祈りは「新年度の教会の歩みを覚えて」です。