2月4日(日)主日礼拝(公現後第五主日)

 

前奏

 

招きの詞 (詩編100:1-3)

全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

喜び祝い、主に仕え

喜び歌って御前に進み出よ。

知れ、主こそ神であると。

主はわたしたちを造られた。

わたしたちは主のもの、その民

主に養われる羊の群れ。

  

頌栄 28番(21)あるいは545番(1954年版)

 

(罪の告白)

あわれみ深い父なる神よ

わたしたちは無知と弱さの故に、また故意に、思いと、言葉と、行いによって、あなたと隣人に対して罪を犯しました。

わたしたちは、お与えくださったあなたの愛と、わたしたちのうちに与えられている神のかたちを傷つけました。

これらの罪のゆえにわたしたちはみ前に悲しみ、恥じ、悔いています。

神は真実な方ですから、わたしたちが罪を言い表すとき、主イエス・キリストのあがないの故に、わたしたちの罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。今、わたしたちは自らの生活をかえりみて、これから1分間の沈黙のうちに、それぞれ自分の罪をみ前に覚えて祈ります。

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わたしたちの罪のために、十字架で死に、よみがえられた御子イエス・キリストの故に、わたしたちの罪をお赦しください。

主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

 

讃美歌 8番(21)あるいは26番(1954年版)

 

聖書 ローマの信徒への手紙12章6-15節

 
 

 ヨハネによる福音書2章1-11節

 

 

(祈り)

御在天の父なる神さま

あなたの御名を賛美いたします。

今日、わたしたちを礼拝にお招きくださり、感謝いたします。

前の主日では、礼拝の後、教会の総会を行うことができ、感謝いたします。

長老の選挙では二名の長老を選ぶことができました。小会はさまざまな問題を考えていかなければなりませんが、また新たな思いをもって教会に仕えていけますように知恵と励ましをお与えくださいますよう、お願いいたします。

小会一同、教会員一同、新年度、また新たな気持ちで、神と教会に仕えていきたいと思っております。

教会を、伝統を大切にしながら、整えていけますように、この時代にあっても、導き続けてください。

この地での伝道の働きを、教会員の養いと共に、なしていけますように上よりの励ましをお与えください。

能登半島地震により壊滅的な被害を受けた地域、停電や断水が続いている地域の人々のために、祈ります。支援している人たち、しようとしている人たちが多くいることを聞かされています。どうか、適切な働きができますように。わたしたちの教会もできることを考えていけますように、お願いいたします。

わたしたちの身近にも、苦しんでいる人たち、誰にも訴えることのできない人たちもいると思います。どうか、造り主なるあなたのもとに招き、救ってくださいますよう、お祈りいたします。

教会の中のさまざまな人たちに、救いの恵みをまた確認させてください。

体の病気、心の病気をいやしてください。

この礼拝を導いてください。

福音を守り伝えてきた教会と神学の歴史を思い、教会に感謝いたします。

わたしたちもその一部とされましたことに感謝し、次の時代まで、途切れさせずに伝え続けていけますように、信仰と喜びをお与えください。

感謝、願いを、主イエス・キリストのみ名によって、み前におささげいたします。アーメン。

 

説教  「水瓶に水を入れなさい

 

(こどもの方へ)

 カナの婚礼のお話は知っている人も多いと思います。カナという町で、婚礼、結婚式と披露宴がありました。イエスさまのお母さま、マリアさんは手伝いをしていました。イエスさまも弟子たちも出席していました。婚礼の途中、終わりの頃、たいへんなことが起こりました。お客さんに出すぶどう酒が足りなくなったというのです。困ったマリアさんは、息子であるイエスさまなら、何とかしてくださるだろうと思って、助けを求めました。イエスさまは、最初その頼みを断っておられましたが、結局、その状況を救ってあげられました。その方法は、こうです。その家の6つある清めの石の水がめ、一つが80~120リットルも入る水がめに水をいっぱい入れさせ、その水をぶどう酒に変えてくださったというのです。そして、そのぶどう酒は世話役の人が不思議に思う程おいしいぶどう酒であった、という話です。

 このカナの婚礼の話が表していることとは何でしょうか。イエスさまは、最初マリアさんから頼まれた時、「わたしの時はまだ来ていません」と断られました。「わたしの時」とは、ヨハネによる福音書の12章23節以後の時です。そこには、こう書かれています。「イエスはこうお答えになった。『人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ』」(ヨハネ12:23、24)。ですから、「わたしの時」とは、イエスさまの生涯の最後の頃、十字架に向かわれる時を指しています。

 清めの水を入れる水がめは「律法」を表していると言われます。その水をイエスさまがぶどう酒に変えられたということは、イエスさまの十字架の血によって、律法を全部守ることのできない人間の罪がゆるされ、神さまからよしとされ、愛されるようになりますよ、ということです。そのようにイエスさまが約束してくださったのです。

 教会に聖餐式があり、その中で、「これはわたしの体である」とか「これはわたしの血である」という言葉の後で、小さいパンを食べ、小さい器に入ったぶどう酒やぶどうジュースを飲むのは、そのことを思い出し、そうしてくださった神さまのためにまた生活しよう、イエスさまとの約束を守ろうと思い出す時です。聖餐は洗礼を受けないと食べることはできませんが、食べない人もイエスさまの約束のことを思って聖餐式に参加してくださいね。

  

讃美歌  286番(21)

 

(おとなの方へ)

 カナの婚礼の記事は、主イエスが「しるし」を行って、ご自分の栄光を世に現された最初の出来事の話です。そこに、新しい福音は、古いユダヤ教の律法にまさるという意味が隠されています。読者はこの「しるし」を比喩として、このように解釈して、物語の意味を把握するように要求されています。ヨハネによる福音書は、ずいぶん後に書かれた福音書です。2章1節の「三日目」は主イエスの復活の日を暗示しているのでしょう。彼は復活して、この奇跡を行ったことになる、と言われます。彼は初めは客の一人でしたが、やがて主人となられます。

 主イエスの母は台所で働いていました。母はぶどう酒の尽きたのを知って、主に助けを求めます。もうこの福音書では、彼女は主イエスの力をよく承知しています。そのお答えは、「わたしの時」が大事であることを強調しています。その時は、先程申しましたように、ヨハネ12章24節の「一粒の麦が地に落ちて死ぬ時」、十字架の時から始まります。ヨハネによる福音書2章5節の「しかし、母は召し使いたちに、『この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください』と言った」というところで、主イエスの母は主をよく理解していた人として描かれていると言われます。どういう意味でしょうか。

 ローマの信徒への手紙12章6―15節が選ばれています。教会の人が力を合わせて、教会を建てるための奉仕をするように、述べられているところです。これは、「水がめに水をいっぱい入れなさい」という主のお言葉によって、大きな水がめに水をせっせと入れる行為、だと思います。大量の水ですから、地道に入れ続けることが要求されます。しかし、どれほど努力して、水を縁まで満たしても、その水をぶどう酒に変えてくださるのは主イエス・キリストです。わたしたちが、求道者やこどもや家族に、どれほど水を満たしても、キリストが変えてくださらなければ、信仰を持つということはないということです。また逆に、キリストが水をぶどう酒に変えようとしてくださるならば、わたしたちの思いがどうであろうと、信仰者になる、という約束でもあります。

 教会を建てるための業は、直接伝道することだけではありません。「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。」(ローマ12:6―8)と

書かれています。各自は、それぞれ異なった賜物を持っているので、それを教会形成のためにささげよ、というのです。ここに挙げられている賜物は、預言、奉仕、教えること、勧めること、施し、指導、慈善などですが、パウロが別の箇所、例えばコリントの信徒への手紙一の12章28節以下で挙げている賜物や、行為者と、いくつかの点で異なっています。これは、当時においては後世の教会のように教会の制度がまだ固定していなかったからだと言われます。しかし、教会における会員の任務として、かなり広い範囲の働きが指摘されています。しかも、「惜しまずに」とか、「熱心に」とか、「快く」など、適切な注意が加えられています。

 9節以下に、パウロは、愛のうち、教会生活にふさわしい愛について述べています。これは、神への愛や恋愛の愛とは異なる愛です。10節の「兄弟愛」(フィラデルフォス)です。「愛には偽りがあってはなりません」と言われています。愛する者は、善悪の区別をともすると軽んじることがありますが、もっと冷静な愛です。「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(12:9―10)。教会という集団での生活で大切なのは、他の人の人格を尊敬し、相手を自分より優れた者と思いなさいということだと言われています。それくらいに思って接すると、良いところも見えてくると思います。そして「霊に燃え」、信仰者の霊が聖霊によって燃やされるように、信仰に燃えて、教会において、怠らずに主に仕えなさい。苦難の時も、たゆまず祈りなさい。さらに「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい」と書かれています。これは、多分貧しいエルサレム教会やそこから来る旅の伝道者のことについてでしょう。

 ここまでは、仲間の人たちに対する愛の表し方ですが、一般的な伝道においては、このように言われています。「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」(14節)。教会にいて、現代、このようなことは稀にしかありませんが、その時も呪ってはいけません、と言われているのです。

 そして「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」と述べられています。教会の外の人たちに対しても、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くことが求められているように思われます。また、狭い集団ではともすれば難しいことでもある、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く、ということが勧められています。神に救われた人は、嫉妬する必要がなく、また余裕があるので、他者とより共感できるようにされているから、ということでしょう。

 母マリアが主イエスのことを理解していたことの答えの一つは、主イエスが「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」方であるということです。教会に奉仕し、良い時も悪い時も、地道に水がめに水を注ぎ続け、キリストの十字架によって救われる人が聖霊によって与えられた時は、カナの婚礼の時のように、キリストも共に喜んでくださってそこにおられることを思い出したいと思います。  

  

(祈り)

造り主なる天の神さま

神の御子がこの世にお生まれになられた一つの大きな目的が、聖書によって示されましたことを、感謝いたします。

あなたは、罪に堕ちたわたしたちを救うため、御子を、十字架に付けるため、わたしたちの罪を清めるため、この世に送ってくださいました。あなたの愛に感謝いたします。

水をぶどう酒に変えられたように、わたしたちの心を、礼拝ごとに、主のことを思うたびに、変えてくださいますようお願いいたします。

わたしたちに、信仰の共同体が与えられていますことを感謝いたします。

教会がこの世にあって、変わらないもの、変わるべきものを見定めることができますように。

誤り多い者でありますが、あなたが豊かに導いてくださいますよう、お願いいたします。

この感謝と願いを、神の御子主イエス・キリストの御名によって、御前におささげいたします。

アーメン。

 

讃美歌 393番(21)

     

日本キリスト教会信仰の告白(→こちらからご覧になれます)

 

聖餐式 

讃美歌 78番2,4節(21)あるいは205番1,2節(1954年版)

  

奉献  

讃美歌 65-2番(21)

献金

主の祈り(→こちらからご覧になれます)

 

頌栄 24番(21)あるいは539番(1954年版)

 

派遣と祝福

 

後奏

 

※今週の祈りは「小会を覚えて」です。