2月11日(日)主日礼拝 公現後第六主日

 

前奏

 

招きの詞 (詩編100:1-3)

全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

喜び祝い、主に仕え

喜び歌って御前に進み出よ。

知れ、主こそ神であると。

主はわたしたちを造られた。

わたしたちは主のもの、その民

主に養われる羊の群れ。 

 

頌栄 28番(21)あるいは545番(1954年版)

 

(罪の告白)

あわれみ深い父なる神よ

わたしたちは無知と弱さの故に、また故意に、思いと、言葉と、行いによって、あなたと隣人に対して罪を犯しました。

わたしたちは、お与えくださったあなたの愛と、わたしたちのうちに与えられている神のかたちを傷つけました。

これらの罪のゆえにわたしたちはみ前に悲しみ、恥じ、悔いています。

神は真実な方ですから、わたしたちが罪を言い表すとき、主イエス・キリストのあがないの故に、わたしたちの罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。今、わたしたちは自らの生活をかえりみて、これから1分間の沈黙のうちに、それぞれ自分の罪をみ前に覚えて祈ります。

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わたしたちの罪のために、十字架で死に、よみがえられた御子イエス・キリストの故に、わたしたちの罪をお赦しください。

主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

 

讃美歌 21番(21)

  

聖書 

テサロニケの信徒への手紙(一)1章1-10

    

 

マタイによる福音書13章31-33

 

 

(祈り)

御在天の父なる神さま

あなたの御名を賛美いたします。

わたしたちを礼拝にお招きくださり、感謝いたします。

能登半島地震の被災地援助をする目途が立ちましたことを感謝いたします。

地震の多い国に住んでいるわたしたちですが、助け合っていけますように、お願いいたします。

今日は、教会の執事のことを覚えて祈ります。

執事は一人一人が神さまから任命を受け、臨機応変に、教会のために働く人たちです。また教会の外の人々のためにも尽くす務めを帯びた役職として立てられました。

教会総会において、三名の執事が決まりました。

執事職についた人たちの信仰と健康をお守りください。また、教会員の人たちも執事に協力できますように願います。

キリストを頭とする共同体であります教会を愛し、また教会から多くの恵みを受けることができますように、お願いいたします。

聖霊の御働きを乞い願います。

病気の人たちを支えてください。

こどもの人たちが教会を通して、あなたからの御守りを受け、自分が造られたことを喜び、将来に希望を持つことができますように、お願いいたします。

今日の礼拝という奉仕をする全員を励まし、用いてください。

感謝、願いを、主イエス・キリストのみ名によって、み前におささげいたします。アーメン。

 

説教 「愛のために労苦すること」

 

(こどもの方へ)

 今日は、「からし種」と「パン種」のたとえのお話です。種は小さいものが多いですが、からし種は非常に小さい種です。世界でいちばん小さい種というわけではありませんが、聖書の地域で、いちばん小さい種だったようです。1ミリはない黒い種です。

しかし、この種を畑にまくと、成長し、どの野菜より大きく育って、4、5メートルに茎が伸びるそうです。木のようにしっかりしていて、空の鳥が来て巣を作るほど大きくなるというのです。種の小ささに比べて、大きく成長するものの例です。

 また、パンを作る時のことが言われています。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる」(33節)。イエスさまはこどもの時、お母さまがパンを作るのをご覧になっておられたのでしょう。小麦粉に水を加え、酵母のパン種を入れてこねて、放っておくと膨らんできます。

 ここで言われているからし種やパン種とは、わたしたちの心の中にある信仰と言えます。イエスさまがお伝えになった「天の国」は、わたしたちが聞いて理解した時、そして信じるようになる時、それはとても小さいものです。今、洗礼を受けて教会員になった人たちも、心の中の信仰は、初めは本当に小さいものでした。それが、どんどん大きくなって心の中に広がっていったのです。

 「人がこれを取って畑に蒔けば」と言われていますが、この種を蒔く人は具体的には日曜学校の先生や牧師であったりしますが、これはイエスさまが人の心に小さな天の国の種を蒔かれているということです。その人の中で、天の国が小さいか、大きく広がっているかなどということは、外からは見えにくいことです。また、人によっては、恥ずかしいとか、大切なものほど隠しておきたいと思う人もいます。でも、今はからし種のように小さいかもしれない信仰を、大切に育ててくださるのはイエスさまです。みなさんも、みなさんの中にある小さな天の国、つまり信仰が大きくふくらみますように、今度お祈りする時、忘れずにお祈りしてくださいね。

 

讃美歌 448番(21)

 

(おとなの方へ)

 テサロニケの信徒への手紙一1章1節は、パウロの手紙のあいさつとして最も簡単なものと言われます。テサロニケの信徒への手紙(一、二)は、残っているパウロの手紙のうち一番古いものです。しかしここに、これ以後にキリスト者たちが書いた多くの手紙の、さまざまなあいさつに共通する大切な要素が、含まれていると言われます。この手紙の事実上の著者はパウロですが、差出人がシルワノ、テモテらと連名になっています。シルワノという人は、エルサレム出身の伝道者で、フィリピ、テサロニケなど、マケドニア地方の諸教会の設立に際して、パウロを助けた人で、使徒言行録ではシラスと言われています。テモテもパウロの忠実な弟子で、マケドニア地方の諸教会の関係を密接にするために働いた人です。パウロの最初の手紙は、三人連名の手紙でした。

 そして、パウロが、初めてギリシャ的なあいさつの言葉カイレイン(恵み)と、ユダヤ的なあいさつの言葉シャローム(日本語の平和、ギリシャ語のエイレネイ)とを、キリストの福音によって統合させ、手紙のあいさつとしたのです。「パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。」(1:1)。

 パウロの手紙には通常あいさつの後に、神への賛美か感謝の言葉があります。それらは、宛先の人々の間に現れている神の愛のみ業とそれにこたえる信仰とを思い起こして、なされています。ここでは、なぜパウロたちが神に感謝しているかを、詳しく説明しています。「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています」(1:3―4)と言われています。

 信仰と愛と希望という言葉が、もう出てきています。これらは、信徒たちが神から頂いている最も尊い聖霊の賜物と言われるようになります。例えば、コリントの信徒への手紙一13:13などです。信仰とは、神の恵みを素直な気持ちで頂くことです。具体的には、神がこの世の人々に下さった独り子イエス・キリストによる良い知らせ、福音を聞いて、心の中に受け入れることです。信仰者には、新しい命が与えられ、新しい生活が始まります。信仰の働きの中で大切なことは、キリストによる救いの福音を宣べ伝えることに協力、参加することです。これは、神への信仰と、神から愛を受けることによる他者への愛がなければ、ただの義務であり、わずらわしい苦労になってしまうでしょう。「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し」というのは、そういうことです。それはむなしい苦労ではなく、喜びが与えられる苦労です。「また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。」とパウロは書いています。救い主キリストが万事を完成したもうという希望が述べられています。

 はっきりしていることは、彼らが神に愛されているということです。その原因は、教会の人たちの優れた素質ではなく、御言葉を聖霊による喜びをもって受け入れたから、ということです。神は、山を動かすほどの強い信仰をお与えになりました。救いに入れられた人たちは、喜びだけでなく、希望が与えられたことが述べられていました。9節から10節にかけて言われています。「・・・あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです」。この手紙で言われているのは、キリストに再び出会う将来に対する希望でもあることが分かります。テサロニケの信徒への手紙はパウロの最も早い時期に書かれた手紙ですから、再臨が近いことが強調されています。キリスト教会の人たちは、イエス・キリストの死と復活による福音を信じて、それまで信じていた偶像を捨て、神に立ち帰り、神のために働くようになり、いつの日かイエス・キリストがすべてを完成してくださることを待ち望む者になった人なのです。神の怒りから救われているということが、神に愛されているということです。

 からし種とパン種が最初は小さくても大きくなる姿は、教会を表しているとも考えられてきましたし、そう考えられます。ヨーロッパでキリスト教徒が爆発的に増え、ロシア、アメリカの全大陸、オセアニアに押し寄せてきて、大きくなりました。19世紀、ヨーロッパがキリスト教離れを始めた頃、主にアメリカの信仰復興運動からプロテスタントは日本に入ってきましたから、ヨーロッパの最先端の思想はもうキリスト教ではありませんでした。今も、アフリカ、サハラ以南ではキリスト教徒は爆発的に増えているところもあるそうです。西アジアや北アフリカはキリスト教になったあと、新しい宗教であるイスラムに改宗し、そのこどもたちの信仰の継承はほぼ百パーセントと言われますから、これからもイスラムが増えていくことでしょう。日本の教会は労苦してきましたが、パンのように大きく膨らむという状況では全然ありません。日本は1パーセント未満を続けています。

 日本は、キリスト教国のように社会や家の宗教だからなんとなくキリスト教徒ですという人が少ないのは当然で、わたしたちは、教会員の質を良くして、それぞれの信仰者が自覚的で深い信仰を育てるように努めたいものですと、以前申したことがありますが、これは間違っていたように思われます。量より質という考え方は間違っていたと、最近思います。大きくなることは、神さまがしてくださることですから、もっと信頼しなければならないと思います。一人一人の信仰は、たとえ自覚的な回心を経なくても、その人の中の天の国はどんどん膨らんでいくことがあると思います。

 しかし、どんどん増えていった信仰も、たいへん長生きするようになりましたので、場合によっては、前より減ってしまうということもあるでしょう。それほど長い信仰生活を送ることができたことは幸せなことですが、主イエスが蒔かれた天の国の種の話をまた思い出して、もうよいということはないので、これからも、わたしたちの中の天の国を、命ある限り、はちきれるほど大きくすることもできること、それをイエス・キリストが望んでおられることを心に刻みたいと思います。 

 

(祈り)

主イエス・キリストの父なる神さま

わたしたちの中に蒔かれたキリストの言葉、救い、愛が、驚くほど膨張し、わたしたちの体の中でいっぱいになること、こんなに不思議なことはありません。

御子の十字架の死と復活の語るものは、神の愛の証しです。

わたしたちの、み言葉を蒔くという、困難で、恵みに満ちた仕事をどうか、導いてください。

一人一人に蒔かれた信仰の種を、大きく成長させてください。

教会には大きな喜びだけでなく、苦しみもありますが、信仰、希望、愛を増してくださり、成長させてください。

教会に来ることのできなくなった人たちにも、日々、新たな命を与えてください。

感謝、願いを、主イエス・キリストの御名によって、御前におささげいたします。アーメン。

 

讃美歌 397番(21)

 

使徒信条(→こちらからご覧になれます)

 

奉献  

讃美歌 65-2番(21)  献金

主の祈り(→こちらからご覧になれます)

 

頌栄 24番(21)あるいは539番(1954年版)

 

派遣と祝福

 

後奏

 

※今週の祈りは「執事を覚えて」です。