2月18日(日)主日礼拝 レント第一主日

 

前奏

 

招きの詞 (詩編100:1-3)

全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

喜び祝い、主に仕え

喜び歌って御前に進み出よ。

知れ、主こそ神であると。

主はわたしたちを造られた。

わたしたちは主のもの、その民

主に養われる羊の群れ。 

 

頌栄 28番(21)あるいは545番(1954年版)

 

(罪の告白)

あわれみ深い父なる神よ

わたしたちは無知と弱さの故に、また故意に、思いと、言葉と、行いによって、あなたと隣人に対して罪を犯しました。

わたしたちは、お与えくださったあなたの愛と、わたしたちのうちに与えられている神のかたちを傷つけました。

これらの罪のゆえにわたしたちはみ前に悲しみ、恥じ、悔いています。

神は真実な方ですから、わたしたちが罪を言い表すとき、主イエス・キリストのあがないの故に、わたしたちの罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。今、わたしたちは自らの生活をかえりみて、これから1分間の沈黙のうちに、それぞれ自分の罪をみ前に覚えて祈ります。

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わたしたちの罪のために、十字架で死に、よみがえられた御子イエス・キリストの故に、わたしたちの罪をお赦しください。

主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

 

讃美歌 299番(21)あるいは139番(1954年版)

  

聖書 

コリントの信徒への手紙(二)6章1-10

     

 

マタイによる福音書4章1-11

 

 

(祈り)

御在天の父なる神さま

あなたを賛美いたします。

今朝も、あなたのみ前で、汚れた手を組み、汚れた唇をもって行う礼拝を受け入れてくださいますことを、心より感謝いたします。

主の受難を記念するレントの季節を迎えました。キリストの十字架をいつにもにもまして思う時を与えてください。

主の十字架の苦しみと恥辱を、思い起こします。ゲツセマネを思い起こします、弟子たちがみな主を見捨てて逃げ去ったことを、主の茨の冠を、人々からつばきされたことを、思い起こします。

わたしたちの人生が苦しみと不条理に満ちていること、自然の驚異の前に取るに足りないものであることを思います。

しかしまた、命が与えられ、何ものかによって生かされていることを思います。

造り主に対して罪を犯して生きている人間、神の存在を疑い、神に不平を言い、また無視して生きようとしている人間、そんな人間に対して、あなたは御子をお送りくださり、わたしたちの罪と神のわたしたちへの愛を教えてくださいました。

どうか、わたしたちをキリストの十字架によって生かされ、救われた多くの人の群れに加えてください。

今、心に痛みを覚えている人たち、体に痛みを覚えている人たちを、顧み、癒してください。

今日の礼拝を導いてください。

聖霊の御働きを乞い願います。

感謝、願いを、主イエス・キリストのみ名によって、み前におささげいたします。アーメン。 

 

説教 「十字架の前での逆説的な生き方」

 

(こどもの方へ)

 今日の聖書のお話の中で、イエスさまは悪魔と対話をしておられましたね。悪魔ってどうして分かったのでしょう。悪魔はどういう姿をしているのでしょうか。悪魔については、みんなそれぞれのイメージを持っていると思います。

 この悪魔は、なかなか賢い悪魔で、旧約聖書をよく知っています。悪魔が聖書を学んでいるなんて、不思議ですね。悪魔は頭がいいんですね。暗記している聖句で、イエスさまと、やり合っています。「聖書にこう書いてある」と言う悪魔もいるので、気を付けましょう。そういう悪魔の誘惑から身を守るためにも、キリスト教のことを学ぶことが必要です。

 さて、イエスさまと悪魔の一回目の対決は、4節のイエスさまの「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」という言葉で終わっています。「パン」とは、食べるものすべてのことを表しています。世の中には、パンを食べることのできない人もいます。生きるために、パンはとても大切なものです。しかし、食べることが十分できても、それだけでは人は幸せに生きることができません。なぜ生きているのか、どう生きたらよいか、分からないからです。わたしたちを、お造りになられた方のお心がわからないと、これは分からないからです。

 二回目の対決の結論は「あなたの神である主を試してはならない」です。このイエスさまが引用された言葉でイエスさまが勝ちました。どういうことでしょうか? 「どんな時も、神さまを試すようなことをしないで、信頼しなさい」ということです。どんな時もです。これは難しいことですが、神さまを心のどこかで信頼している人になりなりたいものですね。

 三回目の対決では、悪魔が「『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言い、イエスさまはそれに対して、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と言われていました。悪魔に対して「退け、サタン」と強い言い方をされています。みなさんが、どんなに欲しいものがあっても、サタンとも言われる悪魔にひれ伏してまで手に入れることは、しないようにしましょう、ということです。悪いことと分かっていてそれをする、ということも悪魔にひれ伏すことになります。神さまか悪魔か、どちらかのいうことを聞かなければならない時、神さまの言われる方を選びましょう、悪魔の誘惑に勝って、神さまの方を選びなさい、ということです。わたしにひれ伏すなら、これらのものをあなたに与えよう、と悪魔がささやいてくる時、イエスさまのことを思い出して、きっぱり断るようにしましょう。

 

讃美歌 284番(21)

 

(おとなの方へ)

 レントの第一主日である今日、「荒れ野の誘惑」の話が選ばれているのは、なぜでしょうか? 考えてみますと、主イエスがここで「断食」をされたからではないかと思います。四旬節とか受難節とも呼ばれるレントとは、昔のクリスチャンにとって、まず、断食の始まる日でした。主イエスの十字架の苦しみを忘れないようにする等のため、自分たちも断食を始める季節だったのです。今もローマ・カトリック教会にはこれが残って守られています。四旬節というのは、四十日間断食をするという意味で、主イエスが荒れ野で四十日間断食をされたことのまねをするということでしょう。復活祭の46日前の灰の水曜日から始まり、6回の主日以外断食をします。古代や中世の教会では、肉食を断っていたようです。随分厳しく感じますが、日本は仏教の影響もあって、675年から1868年頃まで、一年中、あまり肉を食べないようにしていたと言われます。魚は食べてもよいのは、キリスト教のレントも同じです。現在のカトリック教会では、灰の水曜日と聖金曜日に、一日一食で、肉も断つこと、毎金曜日に肉類を食べないこと、ただし18歳未満(毎金曜日は14歳未満)、60歳以上、病人、妊娠中の人は守らなくてもよいそうです。宗教改革もこのような観点からみると、この断食が嫌だったこともあったでしょう。プロテスタントは、レントの期間も、何を食べるか食べないか、断食するのも、全く自由です。断食はわたしたちには奇妙に思われますが、断食のような食物規定が全くない宗教は珍しいようです。

 主イエスのされた四十日の断食がどのようなものであったか分かりません。「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた」(マタイ4:1-2)。 しかし、この話が、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』という結論になっていることは、面白いと思われます。主イエスの、悪魔の誘惑に対して信仰を貫くお姿を思い出して、この季節を過ごしなさい、ということでもあるのでしょう。中世は、大食ということが大きな罪とされていたようです。

 コリントの信徒への手紙二6章3節に「どんな事にも人に罪の機会を与えず」と書かれています。これは、人の誤りを正す、また、人をつまずかせないようにする、ということでもあります。パウロは、キリストの使徒、神の力を受けた神の協力者として働きましたが、その任務は、コリント教会の信徒たちからそしりを受けていました。彼らに対して、パウロは神の栄光が傷つけられないために、どんなことにも人につまずきを与えないように努めてきた、と言うのです。ここは、パウロがコリント教会の人たちに対して「弁明」をしている箇所です。「わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています」(3節)。しかも、どれほどの忍耐をもって、偽りのない愛をもって、やってきたかを述べています。「大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています」(4ー7節)と言っています。しかし、コリント教会の人たちは、批判するばかりで、彼を受け入れなかったのです。


 ここに、誠意を尽くしても受け入れられないでいる人の代表として、パウロが立っていると見ることができます。わたしたちも、人生において、このようなことがあると思います。また、まだない人も、そういう時、どのように考えたらよいのか、どのように生きたらよいのか、書かれています。信仰者として、窮地に陥った時、見上げるものは、やはりイエス・キリストのお姿でしょう。しかも、十字架にかかられたキリストから注がれる恵みによって生きることが、このような場合、よりはっきりと体験されるのです。「左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。」(6:7―8)と書かれています。「左右の手に義の武器を持ち」とは、左右に持っている義の武器によって、こうする、ということでしょう。キリストを信じることによって神から義とされている、という義です。「栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにも」、キリストに救われた者らしく行動するということです。あらゆる場合ということでバランスをとって、栄誉を受ける時も、好評を博す時も、と言っています。パウロの場合は両方あったでしょう。フィリピやテサロニケの教会ではこのコリント教会と違って、評価が高かったのです。しかし、辱めを受けるということの方が強い体験であり、キリストのお姿に重なるのはこちらの方です。

 8節の「栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにも」という対句によって、順境にあっても逆境にあっても常に神の奉仕者であれ、ということがよく表現されていています。さらに「わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています」と言われています(8-10節)。今も、教会の外の人たちから、神の奉仕者に向けられることもある感想として考えられることと重なります。人を欺いている、物乞いのようだ、等です。

 どんな境遇にあっても同じ不屈の態度で身を処することのできる秘訣は、ひとえに「神の力」であるということは、神の奉仕者を励ます言葉であるだけでなく、教会のすべての人々にも、通じることです。困難にあってもくじけることのないありさま、使徒が体験している「逆説的な生き方」、神の力に基づくパラドックスが、印象深い筆致で描かれています。十字架を知っている人は、この逆説的な生き方ができる、ということです。どのような状況であれ、神から義とされ、受け入れられ、肯定されているのですから。「死にかかっているようで、このように生きており、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有している」、持っている者は持っていないように、持っていない者はすべてを持っているように、生きることができるようにされているので、そうしなさいということでもあります。

 十字架の恵みというものはそればかりではありませんが、逆説的な恵みが特徴で、それは信じる人の人生を潤すものです。信仰者の方々が、目には見えないこの恵みによって、本当に潤されて、人生を全うしてくださることを、信じ、願っています。

 

(祈り)

主イエス・キリストの父なる神さま

神のみ子から離れ去ったサタンが再び現れた時、主はわたしたちの罪を赦すために十字架についてくださいました。

主が十字架に向かわれ、苦しみの谷の底まで降りられ、多くの苦しんでいる人たちを救ってくださいますことを信じます。

今、多くの人々が苦しんでいます。

地震のため家を失い、日常生活を失った人々、戦争のため、家や家族を失った人々、それぞれに早急に、ふさわしい援助がなされますように。

なんらかの理由で、過度に貧しくなり、命を保つことも難しくなった人たちが、福祉からもれることのない社会になりますように。

世の中には罪や、人には分からないことで苦しんでいる人たちもいます。どうかそういう人たちを、十字架の主が見つけ、救ってくださいますように。

教会の中で今苦しみの中にある人も、ない人も、わたしたちの人生を支えている、この神の逆説的恵みについて、思いを巡らせ、感謝することができますように。

感謝、願いを、主イエス・キリストのみ名によって、み前におささげいたします。アーメン。

 

讃美歌 296番(1,2,3,6節)(21)あるいは140番(1,2,3,4節)(1954年版)

 

使徒信条(→こちらからご覧になれます)

 

奉献  

讃美歌 65-2番(21)  献金

主の祈り(→こちらからご覧になれます)

 

頌栄 24番(21)あるいは539番(1954年版)

 

派遣と祝福

 

後奏

 

※今週の祈りは「レント(四旬節)を覚えて」です。