2月25日(日)主日礼拝 レント第二主日

 

前奏

 

招きの詞 (詩編100:1-3)

全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

喜び祝い、主に仕え

喜び歌って御前に進み出よ。

知れ、主こそ神であると。

主はわたしたちを造られた。

わたしたちは主のもの、その民

主に養われる羊の群れ。 

 

頌栄 28番(21)あるいは545番(1954年版)

 

(罪の告白)

あわれみ深い父なる神よ

わたしたちは無知と弱さの故に、また故意に、思いと、言葉と、行いによって、あなたと隣人に対して罪を犯しました。

わたしたちは、お与えくださったあなたの愛と、わたしたちのうちに与えられている神のかたちを傷つけました。

これらの罪のゆえにわたしたちはみ前に悲しみ、恥じ、悔いています。

神は真実な方ですから、わたしたちが罪を言い表すとき、主イエス・キリストのあがないの故に、わたしたちの罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。今、わたしたちは自らの生活をかえりみて、これから1分間の沈黙のうちに、それぞれ自分の罪をみ前に覚えて祈ります。

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わたしたちの罪のために、十字架で死に、よみがえられた御子イエス・キリストの故に、わたしたちの罪をお赦しください。

主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

 

讃美歌 305番(21)

  

聖書 

マタイによる福音書17章1-9

      

 

コリントの信徒への手紙(ニ)4章1-7

 

 

(祈り)

御在天の父なる神さま

あなたの御名を賛美いたします。

イエス・キリストの死の十字架によって示された、あなたの驚くべき愛を、さまざまな経験において、知らせてください。

あなたを求めている人たちを顧みて、お救いください。

弱い者と共にいて、彼らを強めてください。

強い者と共にいて、彼らを柔和にしてください。

教会員の人たちが、その生活全般にわたって、あなたのために生きることができますように。

教会に来ることのできなくなった高齢者の方々が、あなたから平安を頂いて生きることで、神の栄光を現すことができますように、願います。

今、教会の奉仕分担表を決めています。

教会が、長老、執事だけでなく、多くの人々が奉仕する場であることを感謝いたします。

教務、会計、聖餐に関わる奉仕、伝道委員、ホームページ委員、営繕委員、式典委員、研修委員、日曜学校、奏楽など、各自が神さまのために奉仕できますように、一人一人に力と喜びを与えてください。

今日の礼拝を導いてください。

聖霊の御働きを乞い願います。

感謝、願いを、主イエス・キリストのみ名によって、み前におささげいたします。アーメン。

  

説教 「土の器に

 

(こどもの方へ)

 今日は、イエスさまの変貌物語のお話です。「変貌」というのは、姿が変わることで、「変身」とも言えます。イエスさまが、ペトロとヤコブとヨハネの三人の親しい弟子をつれて、高い山に登られたことが、書かれていました。

 それは、イエスさまが弟子たちに向かって、十字架と復活のことを初めて話されてから、6日経った日でした。そして、どこの山か分かりませんが、高い山の頂上が近づいてくると、イエスさまのお姿が変わり始めました。イエスさまのお顔が太陽のように輝き、服が光り始めたというのです(マタイ17:1-2)。服が光ったのではなく、イエスさまの体が光り始めたので、全体から光が発して真っ白に見えたということだと思います。弟子たちは、もうびっくりして、ただ見ていました。すると、このまぶしい光の中、二人の人が現れて、イエスさまと語り合っているように見えました。その人たちに会ったことない弟子たちも、誰か分かりました。旧約聖書に出てくるモーセさんとエリヤさんでした。この二人は、特徴のある姿をしていたのでしょう。モーセさんは十戒の二枚の石の板を持って顔が光り輝いているおじいさんの姿だったかもしれません。エリヤさんのことを知っていますか? エリヤさんは預言者ですから、きっと預言者の着る毛皮の衣に皮の帯を締めていたのでしょう。でも、それでは他の預言者と区別がつきませんから、特徴のある乗り物、炎に包まれた馬車を従えていたかもしれませんね(列王記下2:11)。二人とも、神さまの言葉を伝えた人たちですから、イエスさまも新しい神さまの言葉、お約束について話されていたのかもしれません。

 ようやくペトロさんは口を開いて、「わたしは、すばらしい三人のために、仮小屋をたてます」と言いました。なぜそう言ったのか分かりません。イエスさまがどこかに行ってしまうのを心配していましたから、イエスさまが天につれていかれないように、その仮小屋に住んでください、と引きとめようとしたとも想像されます。みなさんは、どう思いますか?

 すると、光り輝く雲が降りて来て、力強い声が聞こえました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」。三人の弟子は、怖くて身を伏せたまましばらくその場所におりました。イエスさまが近づいてきて手を触れて「起きなさい。恐れることはない。」と言ってくださいましたので、顔を上げました。すると、お顔も服も光っていない、いつものイエスさまだけが、そこに立っておられました。ほっとして帰る道で、イエスさまは、「今日見たことは、わたしが復活するまで、誰にも話さないようにしなさい」と弟子たちに命じられました。

 弟子たちにこの意味が分かったのは、イエスさまが復活されてからのことです。それから、このペトロ、ヤコブ、ヨハネが、イエスさまが神の子であり、約束の救い主メシアであったことを、死ぬまで人々に語り伝えてくれたのです。そうして、わたしたちは今イエスさまのことを知ることができるようになったのです。 

 

讃美歌 285番(21)

 

(おとなの方へ)

 マタイによる福音書17章1節に「六日の後」と書かれています。何の六日の後でしょうか。その前の箇所は、主イエスの最初の受難告知の話です。16章21節「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」と書かれています。そして、その6日の後に、主イエスの十字架の死の意味と、その先の復活の時に明らかになるご自分の本当の姿を、信用できる三人の弟子にだけ見せられたということです。主イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と命じられたのですから、これは復活後の人々であるわたしたちのためにも、主が見せてくださったことがらになります。そういたしますと、「六日の後」は日記のような日付けではなく、象徴的な意味を持っていると考えられます。出エジプト記24章15―17節を反映させていると言われます。「モーセが山に登って行くと、雲は山を覆った。主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた。主の栄光はイスラエルの人々の目には、山の頂で燃える火のように見えた」。

 主イエスが時々山に行かれて一人で祈られていたことは、福音書に出てきます。この時も祈りに行かれたのでしょう。そして、主イエスのお姿が変わられるのを三人の弟子たちは見ますが、一人で高い山に登られ祈られていた時は、いつもこのようになられていたのかもしれません。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(17:2)。変わるという言葉は、原語ではメテモルフォーセーという言葉で、メタモルフォーゼとは、昆虫が幼虫、さなぎ、蝶などになる「変態」という言葉にもなっていますが、いわゆる変身のことです。古代にも、今に劣らず、多くの変身物語り(変身譚)があります。主イエスの場合、顔や体が光ったという変化です。それを見られないように、祈る時一人で山に行かれていたのかもしれません(新約外典の中にもたくさんあります。)このように光り輝いている人として、主の復活日、墓にいた天使を思い出します。マタイでは、28章3節を見ますと「その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。」と書かれています。ですから、体が光るのは、天的なことを表していることになります。

 そして、主がモーセとエリヤと語り合っていた、というのです。エリヤは火の馬車で昇天した人で、モーセもまた民間伝承では天使に体を持っていかれた人となっていますので(ユダの手紙9節にこの時のことが出ています)、ペトロたちには不思議ではないのです。

 そして、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という光り輝く雲の中からの神の声は、モーセとエリヤとイエスを同列に置いたペトロに対して、旧約は成就されるので、これからは、モーセとエリヤではなく、このイエスに聞くように、ということでしょう。これは、主の復活の時、明らかになりました。ペトロ、ヤコブ、ヨハネは、その宣教の先頭に立つ人たちです。まだ主の受難さえ受け入れられないこの人たちに、これからの主の受難、復活の後、宣教の苦難の道を進んでいけるように、主イエスが特別に先立って見せてくださったのでしょう。

 コリントの信徒への手紙二4章7節には、復活の主イエス・キリストの光輝くその神性が目立つように、土の器に、それを神は注ぎ入れてくださったと、書かれています。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」(4:6-7)。

 普通は、「この土の器に」と、謙遜の言葉に使います。しかし「土の器」とは元々パウロに対する評価の言葉(悪口)であったかもしれませんが、土の器とは「人間」のことです。神に対して、人は皆、土の器と言えます。無限な者に対して、限りある、有限な者です。来主日は第一主日ですから、聖餐式があります。その中で、「これはわたしの体である」という文言があります。このパンが、空間的にも時間的にも有限なこのパンが神であるキリストの体であるとは、この言葉だけでは、そんなことはないと言われても仕方なのです。しかし、わたしたちは、聖餐のパンを前にして、その不思議さを思うよりも、神が人となられたことの不思議さを思うべきです。このような有限な自分という土の器にも、無限なる方が関わりを持ってくださり、神である方の恵みに満たされることの不思議さを思うべきです。わたしたちが現実の中で失望することなく理想を持ち続けることができる根拠は、神が人となられた一回だけの奇跡によることを思って、そのパンを食べるべきです。聖餐式は、過去を思い出して罪の赦しをありがたいと思うだけの時ではありません。現在に関わることです。この土の器であるわたしに神がしてくださった奇跡的な救いを思う時です。聖餐式のパンもまた、土の器にキリストという宝が納められた姿の一つなのです。だから聖餐式は、わたしたちも土の器であっても、神の栄光のために生きようという思いを更新する時でもあるのです。

 パウロは4章1節から、どのような心構えと態度をもって、務めを果たしてきたかを述べてきたのでした。「こういうわけで」というのは、その前に書かれています、モーセの顔が輝いていたけれど、それはキリストの輝きによって、モーセの栄光が失われたこと、律法であるモーセから自由になったことなどです。「主の霊のおられるところに自由があります」(3:17)。ところが、コリント教会で起こったことは、この自由を誤解した人たちが現われたということです。「かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます」と書かれています。一部の人たちが、キリストを宣べ伝えるのでなく、自分自身を宣べ伝えようとしたことに対して、パウロはイエス・キリストを宣べ伝えると言っています。

 コリント教会が創設されたのは、パウロの第二伝道旅行の時でした。彼は紀元50年の初め、古代から繁栄していたこの大都会に来た、と言われます。コリントはギリシャ最大の貿易港であり、ギリシャ人、ローマ人、ユダヤ人など多様な人たちがいました。コリント教会は活発な教会でした。しかし、問題が多く、そのために、パウロは悩まなければなりませんでした。そして、コリントを去った後も、さまざまな問題を聞き、手紙を書いたり、出かけていったりして、教会のために労し、戦ったのです。コリント教会のパウロへの非難も激しいものでしたし、パウロの反論も激しいものでした。

 しかし、コリント教会がそんなに悪い教会だったのかと、わたしはこの頃、思います。コリント教会の問題に、性的不品行の問題があり、それは「異邦人の間にもないほどのみだらな行い」と非難されています。モーセの輝きからキリストの輝きに、律法から福音によって解放され、性的不品行をするというのはもちろんいけないことですが、その中に「同性愛」の問題もあったと思われるからです(ローマの信徒への手紙1章26―27節)。

 しかし、パウロの時代のことを、2024年のわたしたちが判断するのは、気の毒なことです。今から、わずか50年前にも、同性愛はいけないことと一般的には思われていたからです。どちらもイエス・キリストによって救われた者として主張しているのですが、教会も伝道者も時代の制約を受けて誤り得るものであることと教えられます。わたしたちは、土の器に「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光」の宝を納めた者ですが、土の器ですので、その時代その時代、誠実に考えて生きて行く他ないと思うのです。

 

(祈り)

天の父なる神さま

十字架に向かわれる主が、わたしたちに見せてくださった幻に感謝いたします。

主が従来のメシアのお姿だけでなく、「苦難の僕」として歩まれることを思います。

栄光に輝かれる主は、また罪人の負う暗く醜い十字架を負われ、罪の赦しを与えられる主です。

十字架上で苦しまれる主は、神の栄光のために生きられ、復活させられる、神の命の輝く主です。

どうか、苦難の中にある教会を、励まし、起こしてください。

地上におけるさまざまな困難、苦しみに会って倒れている人たちに、神の恵みの福音を届けてさせてくださいますよう、お願いいたします。

この感謝、願いを、尊き主イエス・キリストのみ名によって、み前におささげいたします。アーメン。

 

讃美歌 295番(21)

 

使徒信条(→こちらからご覧になれます)

 

奉献  

讃美歌 65-2番(21)  献金

主の祈り(→こちらからご覧になれます)

 

頌栄 24番(21)あるいは539番(1954年版)

 

派遣と祝福

 

後奏

 

※今週の祈りは「教会の奉仕を覚えて」です。く