3月10日(日)主日礼拝 レント第四主日

 

前奏

 

招きの詞 (詩編100:1-3)

全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

喜び祝い、主に仕え

喜び歌って御前に進み出よ。

知れ、主こそ神であると。

主はわたしたちを造られた。

わたしたちは主のもの、その民

主に養われる羊の群れ。 

 

頌栄 28番(21)あるいは545番(1954年版)

 

(罪の告白)

あわれみ深い父なる神よ

わたしたちは無知と弱さの故に、また故意に、思いと、言葉と、行いによって、あなたと隣人に対して罪を犯しました。

わたしたちは、お与えくださったあなたの愛と、わたしたちのうちに与えられている神のかたちを傷つけました。

これらの罪のゆえにわたしたちはみ前に悲しみ、恥じ、悔いています。

神は真実な方ですから、わたしたちが罪を言い表すとき、主イエス・キリストのあがないの故に、わたしたちの罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。今、わたしたちは自らの生活をかえりみて、これから1分間の沈黙のうちに、それぞれ自分の罪をみ前に覚えて祈ります。

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わたしたちの罪のために、十字架で死に、よみがえられた御子イエス・キリストの故に、どうか、わたしたちの罪をお赦しください。

主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

 

讃美歌 300番(21)あるいは262番(1954年版)

  

聖書 

ヨハネによる福音書6章1-15

   

 

ガラテヤの信徒への手紙4章21-31

 

 

(祈り)

御在天の父なる神さま

あなたの御名を賛美いたします。

今朝、あなたの御前で、わたしたちが共に礼拝を守ることができますことを、感謝いたします。

あなたはわたしたちの罪にもかかわらず、救ってくださいました。

また、あなたは多くの苦しみをお与えくださいましたが、今はこうして導かれて、御守りのうちにいます。

キリストのゆえに、感謝いたします。主よ、どうか憐れんでください。

神さま、今日生きることができますことは、あなたの賜物です。

どうか、あなたのために、命を使うことができますように。

被災地の人々をも励ましてください。支援と復興のために、お祈りいたします。

わたしたちの教会も教会の奉仕分担が決まり、新しい奉仕者を加えて、出発することができますことを感謝いたします。

わたしたちが、この地にあって、キリストの救いを宣べ伝え続けていくことができますように、どうかお願いいたします。

御子をこの世にお送りくださり、罪のあがないをされ、救おうとされた人々が一人も滅ばないことを望んでおられる神さま、あなたの救いのために、協力して働かせてください。

今日の礼拝を導いてください。

聖霊の御働きを乞い願います。

各地の教会の礼拝の上にも、主の恵みを祈ります。

感謝、願いを、主イエス・キリストのみ名によって、み前におささげいたします。アーメン。

  

説教 「父なる神と呼べるようにされた恵み

 

(こどもの方へ)

 ガリラヤ湖という大きな湖が聖書の中にはよく出てきます。湖の近くに、ティベリアスという名の町が新しくできたので、ティベリアス湖とも呼ばれていました。イエスさまと弟子たちは、ある日、舟に乗ってこの湖の向こう岸に渡られ、山に登られ、そこに弟子たちと共にお座りになりました。大勢の人たちが岸を歩いて、追いかけてきました。イエスさまが多くの病人をいやされたのを見たからです。高い山の上に大勢の人が追いかけてきましたが、この人達は食べ物を持ってくるのも忘れて登ってきたので、イエスさまは、そのうちお腹がすいて困るだろうと、思われました。

 みなさんは山に行く時は何か持っていきますね。そう、お弁当を持って行くと思います。この人達はイエスさまの姿を見かけたので何も持たずにイエスさまに会いたくて追いかけてきてしまいました。弟子たちのわずかな食べ物しかありません。そこでイエスさまは、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と弟子のフィリポさんに、わざと聞きました。フィリポさんは、こんなに大人数では、少しずつ食べるためにも、二百デナリオンでも足りないと言いました。お店もないし、たとえあったとしても、こんな大金は出せません、ということでしょうか。なんとかならないかなあ。

 そこに、お弁当を持ってきていた少年が弟子のアンデレさんに教えてくれたのでしょうか。アンデレさんはイエスさまに、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます」と言いました。でもこれでは、とてもこの人数は無理と思って困ってしまいました。

 それで、イエスさまは、最初からなさろうとしていたことをされたのです。みんなを座らせ、そのパンを取り、父なる神に感謝の祈りを唱えてから、人々に分け与えられました。魚(パンのおかずの干し魚)も同じようにして、分け与えられました。そこに何人いたかというと、男の人だけで五千人いたというのです。女の人やこどもも加えたらもっと多くの人がいて、食べたことになります。でも、みんな満腹したんですって。

 これはどういうことでしょうね? この不思議な食事は、教会の聖餐式を表していると言われます。聖餐式と訳しているギリシャ語は、「ユーカリスト」という言葉です。ユーカリストです。コアラの食べるユーカリに似ていますが、ユーカリストの意味は「感謝」です。11節のイエスさまの「感謝の祈りを唱えてから」という言葉も、それを表しています。魚は、キリスト教のシンボルの一つです。「イエス・キリスト、神の子、救い主」をギリシャ語で「イエースース・クリストス、セウー(神の)フュイオス(子)、ソーテール(救い主)」と言います。最初の文字をつなげると「イクスース」となり、ギリシャ語の魚という言葉になったからです。それでキリスト教の印になりました。この魚マークを貼っている車をみたこともあります。

 さて、この山の上にいた人達は洗礼など受けていなかったということから、聖餐式の聖餐は誰にでも望む人には受けさせるべきだ、という人もいます。しかし、洗礼を受けた後の人でないと受けさせないということになっています。洗礼は誰に対しても開かれています。洗礼を受けてさえいれば、他の教会の人でも頂けます。例外は、赤ちゃんの時洗礼を受けた人で、そういう子は、信仰告白をする前には、聖餐を取ってはいけないことになっています。いろいろな考え方があるようです。しかし、教会の聖餐式が背景になって、この話が書かれていることは事実です。みなさんも、洗礼を受けて、いつかあのパンとぶどう液の聖餐を頂いてほしいと思います。

 あんな小さなパンとぶどう液ではお腹はいっぱいにならないと思うかもしれません。でもイエスさまの「最後の晩餐」を思い出して受ける聖餐で、わたしたちの心は「感謝」でいっぱいになるのです。

 

讃美歌 77番(21)あるいは206番(1954年版)

 

(おとなの方へ)

 多くの人が熱烈な思いを持って、主イエス・キリストのあとについて行きました。だれも我を忘れて、山の上までついて行ってしまったことからも明らかです。この湖の岸にある村落や町から、人々は主のいやしを受けるため、言葉を聞くために、流れるように押し寄せてきたのです。わたしたちは、山の上での五千人の給食の物語からいろいろなことを学べますが、ここから、主イエス・キリストは、我を忘れて彼のあとについて行こうとする人たちを、すすんで面倒をみてくださる方であることを知らされます。どんなわずかなものしかないにように見えても、神は信ずる人に報いてくださるのです。

 ガラテヤの信徒への手紙4章21-31節が教会暦で選ばれています。「わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか」(ガラテヤ4:21)と書かれています。前の方の律法は、福音に対する律法、後の律法とは、旧約聖書の最初からの5冊までの本を指します。その律法の中にある創世記16章からのアブラハムの物語です。ガラテヤにいるユダヤ人が律法のもとにとどまるべきか、福音に生きるべきかまだ決めかねていたことに対して、彼らがよく知っているアブラハムの故事を使って、律法と福音について語っているところです。アブラハムには二人の息子がいました。先に生まれた子は、女奴隷ハガルから生まれたイシマエルです。後で、自由な女、妻のサラからイサクが生まれました。これをパウロは霊的解釈の一つ、寓意的解釈をしています。このような解釈は新しいものではなく、当時のラビも説教でしていたようです。パウロによると、この二人の女性を、「神のアブラハムへの約束」と「神がモーセに与えられた律法」の二つに当てはめています。つまり女奴隷ハガルが律法にあたります。奴隷の産んだ子は奴隷であるように、律法は奴隷を生むというのです。つまり律法は人を奴隷として束縛の下に置くということです。

 25節に「今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。」と書かれています。律法の具体的中心は、神殿のあるエルサレムということでしょう。今のエルサレムは地上のエルサレムですが、それに対する言葉は「天のエルサレム」です。当時のユダヤ人が終末に、というか終末後現れると考えていた「新しいエルサレム」が、イエス・キリストによって始まったということです。キリストによって律法から自由になった者の住むところです。自由な子たちですから、自由な女サラの子たちと言えるのです。こちらの方が、神とアブラハムの約束の子だというのです。イサクの子孫はイスラエルですから、あなたたちも律法から自由な者にならなければならない、ということでしょう。キリスト者は自由の女サラの子にあたるので、自由人であり、律法の下にある奴隷ではないということです。

 そしてイザヤ書54章1節(1150ページ)を引用しています。「喜べ、子を産まない不妊の女よ、/喜びの声をあげて叫べ/産みの苦しみを知らない女よ。/一人取り残された女が夫ある女よりも、/多くの子を産むから」。今と違って、子を生まないということが大変価値の低いことと考えられていた時代のことです。不妊の女サラがハガルの後で約束の子イサクを産んだように、荒廃しているエルサレムを「不妊の女」にたとえ、それが捕囚前のエルサレム(夫ある女)よりも人口の多い都となって栄える日が来ることを預言している言葉です。パウロはそれを天のエルサレムにかかわる預言として引用し、神の約束の子どもである霊のイスラエル、教会が、律法から自由にならない人たちより数が増えることを預言しているのです。

 そして、4章29節に「あのとき、肉によって生まれた者が、“霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。『女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである』と書いてあります。」と書かれています。イシマエルがイサクを迫害したということは創世記には明確には出てきませんが、創世記21章9―10節を見ますと「サラはエジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた。『あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。』」と書かれていますので、こういうところから言われているのでしょう。

 自由な女から生まれたと言われていますが、何が自由なのかと考えさせられます。律法の下にいない者は、何をしてもいいから自由ということではないからです。それは、「神に対する関係」であると思います。この手紙の4章6節に出てきます。「アッバ、父よ」という呼びかけは、まったく恐れのない呼び方です。そして、このように書いてあります。「それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」(4:5-7)。

 神への恐れから善いことをするのか、神への感謝から善いことをするのか、ということです。わたしたちが人にプレゼントする時も、雇い主や上司にこれで勘弁してくださいと、お歳暮を贈るのと、好きな人に自由に、お歳暮を贈るのでは違うと思います。神さまが恐怖の対象でなくなったということです。父なる神が恐怖と愛の対象でなく、愛の対象になった、ということです。「アッバ」は、まったく恐れのない父なる神に対する呼びかけです。罪人であるわたしたちは、義なる神に、キリストの十字架故に、まったく安心して、父よと呼びかけることのできる者とされたのです。 

 

(祈り)

天の義なる神さま

み子キリストの十字架の故に、あなたが、罪におちた被造物である人間の父となってくださいましたことを、信じます。

あなたを父と呼べることは驚くべきことです。

その恵みの大きさに驚きながらも、いろいろな律法から自由になれない時がございます。どうか、神を何のためらいもなく父と呼ぶことの自由をみずから限定したり、放棄することがありませんように。

自由にされた心から生まれる余裕をもって、教会における、また人生における神さまへの奉仕の生活を送ることができますように。

それでも、この世においてはいろいろな束縛はあります。どうか、教会において救われた人たちが、神さまのみ前でだけは本当に自由にされた喜びを消すことがありませんように。失ってしまった人には、神の子とされた思いを回復させてください。

造り主から離れてしまったわたしたちを子とするためにみ子を遣わされた、神のみ心を無駄にすることがありませんように、わたしたちに信仰を与え続けてください。

感謝、願いを、神の長子であられる尊き主イエス・キリストのみ名によって、み前におささげいたします。アーメン。 

 

讃美歌 442番(21)あるいは246番(1954年版)

 

使徒信条(→こちらからご覧になれます)

 

奉献  

讃美歌 65-2番(21)  献金

主の祈り(→こちらからご覧になれます)

 

頌栄 24番(21)あるいは539番(1954年版)

 

派遣と祝福

 

後奏

 

※今週の祈りは「教会の奉仕者を覚えて」です。