3月17日(日)主日礼拝 レント第五主日

 

前奏

 

招きの詞 (詩編100:1-3)

全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

喜び祝い、主に仕え

喜び歌って御前に進み出よ。

知れ、主こそ神であると。

主はわたしたちを造られた。

わたしたちは主のもの、その民

主に養われる羊の群れ。 

 

頌栄 28番(21)あるいは545番(1954年版)

 

(罪の告白)

あわれみ深い父なる神よ

わたしたちは無知と弱さの故に、また故意に、思いと、言葉と、行いによって、あなたと隣人に対して罪を犯しました。

わたしたちは、お与えくださったあなたの愛と、わたしたちのうちに与えられている神のかたちを傷つけました。

これらの罪のゆえにわたしたちはみ前に悲しみ、恥じ、悔いています。

神は真実な方ですから、わたしたちが罪を言い表すとき、主イエス・キリストのあがないの故に、わたしたちの罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。今、わたしたちは自らの生活をかえりみて、これから1分間の沈黙のうちに、それぞれ自分の罪をみ前に覚えて祈ります。

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わたしたちの罪のために、十字架で死に、よみがえられた御子イエス・キリストの故に、どうか、わたしたちの罪をお赦しください。

主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

 

讃美歌 303番(21)

  

聖書 

マルコによる福音書14章32-42

     一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

 

フィリピの信徒への手紙2章3-11

 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

 

(祈り)

御在天の父なる神さま

あなたの御名を賛美いたします。

今朝の礼拝にお招きくださり、感謝いたします。

今週は、わたしたちが属しております東京中会の、年に一度の定期中会が開催されます。

中会の教会全体のための奉仕の報告を聞き、今年度のために考え、さまざまなことを決めます。

どうか、上より御導きください。

出席する牧師、長老、会場教会にて奉仕するすべての人たちを強め、用いてください。

このような時代にあっても、苦しんでいる人々、また本当はあなたを求めている人たちを救おうとされる、あなたの御業のお手伝いをすることができますように、わたしたちの誤りを正し、また知恵を与えてください。

今日の礼拝を導いてください。

語る者、聴く者に、聖霊による励ましを与え、あなたに大きな感謝と賛美をささげさせてください。

入院中の方、病気の方々にも、福音の恵みと癒しを祈ります。

各地の礼拝の上にも、あなたの祝福をお祈りいたします。

感謝、願いを、主イエス・キリストのみ名によって、み前におささげいたします。アーメン。

  

説教 「キリストのケノーシス

 

(こどもの方へ)

 今日はゲツセマネという所のお話です。ゲツセマネはオリーブ山のふもとにあって、オリーブの実からオリーブ油をしぼる場所で、ゲツセマネの園とも言われます。イエスさまはそこに着くと、弟子たちに、お祈りをする間、ここに座って待っているように言われました。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子だけをつれて、中に入っていきました。イエスさまは、苦しそうで、また悲しそうでした。イエスさまはこの三人に「ここを離れず、目をさましていなさい」と言われ、少し離れた所に行って、お祈りをされました。もう夜でした。みんな疲れていました。外にいては危険ではないかと心配している三人に、ここで目をさましていなさいということは、ここで祈っていなさい、ということだったかもしれません。

 イエスさまは、地面にひれ伏して、お祈りされました。そのお祈りは、こうです。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。「アッバ」と、わざわざイエスさまの発音を残しています。アッバは、神さまに対してふつうの「お父さん」という呼び方で、このように神さまを呼ぶ人は、その頃はいなかったからです。そうして、二つのことをお祈りされています。一つは、十字架にかかって死ぬということを、しなくてもよいようにしてください、というお願いです。(この杯、この杯に入っている苦い飲み物は、「苦しみの時」のことです。)十字架は死刑の中でも、死ぬまで長くかかる苦しい刑です。イエスさまは神の子でも、わたしたちと同じように体を持っておられるのですから、苦しかったり、痛いのは同じです。祈られたあと、戻ってみると、三人とも眠っていましたので、彼らを起こされました。そして「目を覚まして、祈っていなさい」と言われ、また一人で祈りに行かれました。こんなことを三度も繰り返しました。

 このゲツセマネの園で、イエスさまは人間のことを考えられたと思います。エデンの園で、罪に堕ちてから、人間のしてきたこと、小さな罪、大きな罪、戦争のくりかえしの歴史、などです。人間の罪を悲しく思われたことでしょう。ノアの洪水の時のように、神さまは人間を造ったことを後悔しておられるかもしれないということ、そして人間によって損なわれた神さまの正しさや栄光を回復しなければならないことも思われたでしょう。十字架にかかることを避けることができますように、と願ったあとで、イエスさまは「それでも、あなたのみ心のとおりにしてください」と付け加えられました。

 目を覚まして待っているように何度言っても寝てしまう弟子たちを起こし、イエスさまは悪いだけでなく、弱い人間のために、十字架に向かって進んでいく決心をされたのでした。 

 

讃美歌 302番(21)

 

(おとなの方へ)

 「祈り」ということについて、ゲツセマネの祈りは、いろいろ大切なことを教えてくれます。わたしたちの祈りには、公の祈りと個人の祈りがありますが、ここは個人の祈りについてです。天の父なる神に対して、自分の思いを正直に打ち明けてよいこと、正直に願ってよいこと、しかしその後で、「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と付け加えるようにしなさい、ということです。わたしたちが願う時、こんなことを願っていいのだろうかとあまり心配する必要はないということです。それが御心に適わないことであれば、聞き入れられませんから。わたしたちが間違った願いをしても、それがイエス・キリストの御名によって、すべて叶えられるとしたら、それは恐ろしいことです。しかし、神さまがなさりたいようにされるのであれば、今の思いを何でも隠すことなく願ってもよいことになります。わたしたちが切実な願いをした時、「しかし、あなたの御心に適うようにしてください」と付け加えることを忘れないようにしたいものです。わたしたちの普通の祈りも、「しかし、あなたの思うようにしてください」ということは、たとえ口に出さなくても、いつも思うようにいたしましょう。

 ゲツセマネの祈りから、わたしたちの祈りについても有益なことが教えられますが、もちろんゲツセマネの祈りは、特別な祈りです。神の御子が十字架にかかられるということは、どういうことなのか、ということの一つが、フィリピの信徒への手紙2章6節から書かれています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」と書かれています。キリストのへりくだり、これをキリストの謙卑(謙遜の謙と卑しいという字)と言います。

 ここを見ますと、キリストのへりくだりは、神が人となられたことからすでに始まっていることが分かります。神である方は、体を持たないのですから、体を持った者の苦しみは味わわなくてすむ存在です。人は苦労して生まれてくるようですが、その後も歯が生え変わったりして大変です。食べるための苦労、病気になったり、そして死の苦しみがあります。死なない方が死ぬような者になられたこと自体が大きなへりくだりですが、さらに最も罪の重い犯罪者のかかる十字架にかかられ、苦痛と侮蔑の中で死なれたこと、人間の最低のところまで降りて来られたことまでが、キリストのへりくだりです。

 また、似たようなことですが、キリストが「自分を無にして」ということから、「キリストのケノーシス」という言葉があります。わたしはケノーシスという言葉は、キリスト教の専門用語と思い、今まであまり取り上げたことはありませんでしたが、今日、そうでもないようです。「自分を無にする」、自己無化ということは一般にも言えることであるようです。『ケノーシス 大量消費時代と気候変動における祝福された生き方』という本があります。自分を無にするということは日本では、奥義のように言われてきたことです。アーチェリーと弓道の違いは「無心」であると言う人もいます(オイゲン・ヘリゲル)。わたしが小学生の頃遠足で行ったお寺に、「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」と書いてあって、驚いたことがあります。「無心の境地に至れば、どんな苦難にも耐えられるという意味だというようなことを聞いて、でも火は熱いだろうと思ったことを思い出しました。自分を無にすることが幸いへの道であることは、いろいろな思想家が言っていますし、神の前で自分が無になることも大事ではありますが、倫理としては、絶えざる自己拡張をやめて、地球全体のことを考えなさいということのようです。フィリピの信徒への手紙2章3―4節にも、このように書かれています。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」。キリストのケノーシスは、神が自己犠牲により、罪人を救い、結局造り主としての栄光を取り戻されたということです。自己犠牲の生き方をしなさいというと、律法になってしまいますが、このようにして救われた人は日常生活において、正しい犠牲を払える人になりやすくされていると言われます。キリストは、ケノーシスとへりくだりにより、十字架の死に至るまで、父なる神に従われました。

 そして、9節から11節の、その後起こったことは、降誕の逆以上のことです。天に帰られ、全く元に戻ったわけではありません。このことを、主イエスご自身、明確に知らされていたわけではないようです。「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」。

 「すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」というと、主とは神のことですから、神さまが二人おられるようですが、神さまは一つです。こうして人間の罪は贖われ、人間を造られた神は栄光を取り戻し、被造物は神をたたえることができるようになったのです。

 

(祈り)

主イエス・キリストの父なる神さま

苦しみと罪の中にいます人間に対する、あなたの永遠の愛は、わたしたちの主イエス・キリストの生涯と死とに、明らかに示されています。

受難節において、主のみ苦しみと悲しみをしのばせてくださり、感謝いたします。

どうか、苦しんでいる人たちを、十字架によって救ってください。

すでに十字架によって救われた人たちが、生活の中で、正しい自己犠牲をすることができますように、お願いいたします。

感謝、願いを、尊き主イエス・キリストの御名によって、み前におささげいたします。アーメン。

 

讃美歌 504番(21)あるいは285番(1954年版)

 

使徒信条(→こちらからご覧になれます)

 

奉献  

讃美歌 65-2番(21)  献金

主の祈り(→こちらからご覧になれます)

 

頌栄 24番(21)あるいは539番(1954年版)

 

派遣と祝福

 

後奏

 

※今週の祈りは「第73回定期中会(3/19〜20)を覚えて」です。