3月24日(日)主日礼拝 レント第六主日

 

前奏

 

招きの詞 (詩編100:1-3)

全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

喜び祝い、主に仕え

喜び歌って御前に進み出よ。

知れ、主こそ神であると。

主はわたしたちを造られた。

わたしたちは主のもの、その民

主に養われる羊の群れ。 

 

頌栄 28番(21)あるいは545番(1954年版)

 

(罪の告白)

あわれみ深い父なる神よ

わたしたちは無知と弱さの故に、また故意に、思いと、言葉と、行いによって、あなたと隣人に対して罪を犯しました。

わたしたちは、お与えくださったあなたの愛と、わたしたちのうちに与えられている神のかたちを傷つけました。

これらの罪のゆえにわたしたちはみ前に悲しみ、恥じ、悔いています。

神は真実な方ですから、わたしたちが罪を言い表すとき、主イエス・キリストのあがないの故に、わたしたちの罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。今、わたしたちは自らの生活をかえりみて、これから1分間の沈黙のうちに、それぞれ自分の罪をみ前に覚えて祈ります。

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わたしたちの罪のために、十字架で死に、よみがえられた御子イエス・キリストの故に、どうか、わたしたちの罪をお赦しください。

主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

 

讃美歌 312番(21)

  

聖書 

ホセア書6章1-6節


 

マタイによる福音書27章45-56


 

(祈り)

御在天の父なる神さま

あなたの御名を賛美いたします。

義にして、聖なる、永遠者であられるあなたの御目に世界はどう映っておられることでしょうか。

あなたはわたしたちに無限なものへの思いと正義への思いを与えてくださいましたが、それは自分の人生を悲しみに満ちさせ、わたしたちは理想と現実に絶望し、せいぜい努力したり気晴らしをしたりして生きるしかありませんでした。

忙しい生活の中にあって苦しんでいる者、また多くの時間が与えられ苦しんでいる者にも、どうか、人間の罪を、十字架の下で、考えさせてください。

受難週が始まります今日の礼拝において、主の十字架の苦しみを思わせてください。

仲保者である方の愛と苦しみと恵みを確認させてください。

世界中の苦しんでいる人たちのために、救われたわたしたちが何をしたらよいか、各自にふさわしい方法を教えてください。

この礼拝にあずかるすべての者に、あなたの愛と祝福をお与えください。

今日の礼拝を聖霊によって導いてください。

感謝、願いを、主イエス・キリストのみ名によって、み前におささげいたします。アーメン。

  

説教 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか

 

(こどもの方へ)

 今日はイエスさまが十字架につけられた時のお話です。十字架は、わかりますか? 十字架の横の木に腕を広げて固定します。固定するといっても、手の平にくぎを打ちつけて固定するのです。足は重ねて、長いくぎで縦の木につけます。その日はあと二人の犯罪者がいて、三本の十字架が立ちました。ほとんど裸にされ、着ていた服は、見張りの兵士の人たちが、その身に着けていたものを、くじを引いて分け合っていました(27:35)。その頃は、布は貴重なものでした。十字架の見張りは嫌な仕事ですから、そんなことをして気をまぎらわしていたということもあるでしょう。その他の十字架の下にいた人も、両側の十字架につけられた強盗の人たちまで、イエスさまのことをばかにして、ののしっていました(35ー44節)。イエスさまはただ黙っておられました。

 十字架が立てられたのは、午前9時であったようです。マルコによる福音書15章25節というところに書かれています。そして3時間ほど経ちました。正午になると、昼なのにあたりが真っ暗になりました。「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。」と書かれています。これは、日食ではありません。どこの地域も真っ暗になったというのですから。神さまの御子が十字架におかかりになるというでき事が、あたりを真っ暗にしたのです。偉い人も偉くない人も、男も女も、すべての人が十字架の前では、真っ暗な人、ただ罪人として立たなくてはならないのです。

 3時になった時、イエスさまは初めて口を開かれ「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれました。これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。イエスさまは、「神さま、なぜわたしをお見捨てになったのですか」、このように思うすべての人の救い主でもあります。みなさんも、いつか、このように思う時があるかもしれません。ないかもしれません。長い人生です。このように思った時、かならずイエスさまのことを思い出してくださいね。

 イエスさまのあとに従ってきた人たち、弟子たちも、十字架までは行けませんでした。弟子たちはみな逃げてしまいました。ただ、大勢の婦人たちが逃げずに、あとをついてきました。しかし、遠くから見守ることしかできませんでした。ただ一人で、イエスさまは、人間の罪を負わなければなりませんでした。

 ところが、イエスさまが息を引き取られた時、不思議なことが起こりました。「しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。」(50―53節)。墓から死んだ人々がぞろぞろ出てきて、町を歩き回る、映画や歌のプロモーションビデオで見たりする怖い光景です。エルサレムの町でこのようなことがあったという記録はありません。どういうことなんでしょう。これは、ユダヤの人たちが待ち望んでいた世の終わり、終末の光景なのです。

 また不思議なことに、百人隊長や見張りをしていた人たちが「本当に、この人は神の子だった」と言った、と書かれています(54節)。この人たちは、ローマ人です。本当の神さまのことを今まで知らなかったこの人たちが、ただイエスさまの見張りをするだけでなく、イエスさまを神の御子である、と告白したのです。

 イエスさまは生きていらっしゃる時よりも、死なれてから多くの弟子をおつくりになりました。それは、十字架のイエスさまを見て信じることが本当の信仰だからです。わたしたちも異邦人ですが、異邦人もこのようにイエスさまを信じることができることを覚えていてくださいね。

 

讃美歌 315番(21)

 

(おとなの方へ)

 主イエスが十字架上で言われた「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という言葉は、新約聖書が当時の共通語であったギリシャ語で書かれている中にあって、主イエスの肉声が伝わるように書かれている、と考えられます。しかし、アラム語の「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」は、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」で、マルコによる福音書15勝34節の方が、実際の発音に近いのです。当時、すでに使われていなかったヘブライ語にわざわざされているのです。ヘブライ語であれば、この言葉は、旧約聖書の中にあります。詩編22編の言葉を引用された、とも考えられます。

「指揮者によって。『暁の雌鹿』に合わせて。賛歌。ダビデの詩。

わたしの神よ、わたしの神よ

なぜわたしをお見捨てになるのか。

なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず

呻きも言葉も聞いてくださらないのか。

わたしの神よ

昼は、呼び求めても答えてくださらない。

夜も、黙ることをお許しにならない。」(詩編22:1-3節)

この長い詩編は最後には、希望が語られています。マタイの解釈では、主イエスは、希望を込めてこの言葉を言われたことになります。しかし、このように人に捨てられ、神にも捨てられた苦しみをとおして、主イエスは神と人をつなぐ仲保者となられたことは同じです。

 なぜ主イエスがこのように言われたのか、ということについて、「メシアの秘密」の問題とも関わりますが、御子ご自身、御父からどこまで知らされていたのかわからないところがあります。なにか約束と違うことがあったのでしょうか。三日後には復活できるので、あとしばらくこの苦しみに耐えようというのはどうでしょうか。人はあとのことが不安であるから、絶望するのではないでしょうか。やはり、主イエスは、心からこのお言葉を言われたのではないでしょうか。

 「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と神に向かって叫ぶことは、人間としてとても不幸なことです。しかし、そう問う相手を持っていること自体、さまざまなことに出会っている現代人から見ますと、二番目くらいに不幸なことと思われます。もっと深い闇は、訴える神さまさえいないということです。信仰者が「なぜわたしをお見捨てになるのですか」と訴える相手を持っているということ自体が、恵みでもあるのです。

 さて、全地が真っ暗になったというのは、本当の闇、神がいまさない状態に似ています。そして、この叫びに対して父なる神のお答えはなかったのです。わたしたちは、主イエスが人間の身代わりとして十字架に死なれたことによって救われたのですが、ここでは主は不幸な罪人が神に向かって言う言葉を口にされたのです。わたししたちが自分の罪に苦しみ、悩み、その経験のどん底で叫ぶのは、究極のところ「どうして、自分は神に見放されているのか」ということになるのではないでしょうか。自分が悪いのに、神に訴える。それは身勝手な言い方です。しかし、本当に罪に苦しみ続ける者は、そこに至るのだろうと思います。主がもう一度大声で叫ばれた内容は書かれていません。神の沈黙に対して、もう一度同じことを叫んで息を引き取られたのかもしれません。

 主イエスがこのように苦しんで息を引き取られた後起こったことは、どういうことであったでしょうか。神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたことが書かれています。神殿の幕とは、至聖所の前にかけられている幕のことで、こちらとあちらを隔てている仕切りです。至聖所は誰でも入れるわけではなく、その年の大祭司だけが入ることができました。聖所には成人男性が入ることができましたが、そこまでです。女の人はその回りの婦人の庭まででした。その周りに、ヘロデ大王が作った広い異邦人の庭がありました。この異邦人の庭から先に、無理に中に入った異邦人は死刑でした(フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ古代史』)。それほど厳しいものであった神殿の奥の垂れ幕が裂けたというのです。どんな罪人でも、入って神に近づくことができるようになりました。これが、主の十字架の死の後の、父なる神からのお答えだったのです。

 マタイは何を言いたいのでしょうか。マタイによれば、主イエスの十字架の死の瞬間に、こうした期待が実現したこと、今やメシアの時、終末の時が始まったのだ、ということです。その後に書かれていますこと、百人隊長や十字架の番をしていた人々が「本当に、この人は神の子であった」と言ったことや遠くからこのありさまを見ていたユダヤ人の婦人たちもいたことが付け加えられています。十字架の後、異邦人である人々が信仰の告白をするようになったこと、またユダヤ人の中で女性という至聖所に一番遠かった人たちが、十字架の場面の証人として描かれています。

 十字架の記事は、素朴な筆使いで記されていますが、同時にまことに巧みに語られているとも思います。異邦人に告白させ、女たちを証人として描くことは、どれも予想外なことです。当時、神の前ではみじめな者だと思われていた人々が、主の十字架の証人となったのです。わたしたちでも、どんな人でも、主の十字架の証人になることは決してできないことではないことが、明らかにされているのです。  

 

(祈り)

イエス・キリストの父なる神さま 

神のいない世界、神に近づけない、神に裁かれているとしか思えない人生は、まったく闇の中の人生です。

人の罪を批判しているわたしたち自身、罪深く、空しい者です。

どのように努力しても、死で終わる人生、作っては壊し作っては壊す、こどもの砂遊びのような世界、結局偶然に支配された世界の中で、罪と恥ばかりの人生を歩まなければなりませんでした。

わたしたちには、なぜ自分をこのようにお造りになったのか、なぜこのような人生をお与えになったのか、よく分かりませんでした。

しかし、神のみ子の故に、神と自分を隔てていたものが取り払われ、神に近づくことができ、神のもとに帰ることができました。改めて感謝いたします。

終末の時代に突入したことは、信仰者にはわかることです。わたしたちが、幸運な異邦人となれましたことを感謝いたします。

救われたわたしたちが、神さまから偽りの悔い改めと言われないように、教会生活を送ることができるようにしてください。

これからも幸福な異邦人が増えますように、お祈りいたします。

感謝、願いを、尊き主イエス・キリストの御名によって、み前におささげいたします。アーメン。

 

讃美歌 301番(21)

 

使徒信条(→こちらからご覧になれます)

 

奉献  

讃美歌 65-2番(21)  献金

主の祈り(→こちらからご覧になれます)

 

頌栄 24番(21)あるいは539番(1954年版)

 

派遣と祝福

 

後奏

 

※今週の祈りは「主のご受難を覚えて」です。