3月31日(日)イースター礼拝

 

前奏

 

招きの詞 (詩編100:1-3)

全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

喜び祝い、主に仕え

喜び歌って御前に進み出よ。

知れ、主こそ神であると。

主はわたしたちを造られた。

わたしたちは主のもの、その民

主に養われる羊の群れ。

  

頌栄 28番(21)あるいは545番(1954年版)

 

(罪の告白)

あわれみ深い父なる神よ

わたしたちは無知と弱さの故に、また故意に、思いと、言葉と、行いによって、あなたと隣人に対して罪を犯しました。

わたしたちは、お与えくださったあなたの愛と、わたしたちのうちに与えられている神のかたちを傷つけました。

これらの罪のゆえにわたしたちはみ前に悲しみ、恥じ、悔いています。

神は真実な方ですから、わたしたちが罪を言い表すとき、主イエス・キリストのあがないの故に、わたしたちの罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。今、わたしたちは自らの生活をかえりみて、これから1分間の沈黙のうちに、それぞれ自分の罪をみ前に覚えて祈ります。

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わたしたちの罪のために、十字架で死に、よみがえられた御子イエス・キリストの故に、わたしたちの罪をお赦しください。

主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

 

讃美歌 317番(21)1,2,5,6節

 

聖書 詩編16編7-11節


 ヨハネによる福音書20章1-10節

 

 

(祈り)

御在天の父なる神さま 

今年も主の復活を記念いたしますイースターの日が巡ってまいりました。

さまざまなところから、わたしたちを、御前に招いてくださいましたことを感謝します。

主が今も生きておられることを信じるわたしたちは、このイースターの日を特にうれしく感じる者でございます。

しかし、日々の生活に追われ、主を見失い、あるいは考えもせず、過ごすことの多かったことを、ざんげいたします。

春の命が芽吹くこの季節、わたしたちも主から頂いたもう一つの命のことを思い、感謝いたします。

先週、この教会で、33年前の同じ日のイースターに洗礼を受けた一人の姉妹が天に召され、望みどおりに御言葉によって、あなたのみもとに送ることができましたことを感謝いたします。

あなたに贖われ、救われた人たちに、あなたの絶大な、不思議な恵みをお伝えする務めを負わせてください。

どうか、この礼拝の上に、礼拝を守る一人一人の上に、イエス・キリストによって与えられた命と喜びが豊かに与えられますように、聖霊による照らしと、御導きを願います。

困難な状況にいる人に、一人ではないことを教えてください。

孤独を感じている人に、決して一人ではないことを知らせてください。

大きな喜びがあった人も、神を忘れることなく、ますます感謝の気持ちを増し加えてください。

病いのある方々のそばにいてくださり、励ましを与えてください。

今日は多くの人々を招いてくださり、共に礼拝できますことを、感謝いたします。

どうか、語る者の口を開き、聴く者の耳を開いてください。

この礼拝の初めから終わりまで、主が共にいてください。

感謝、願いを、主イエス・キリストのみ名によって、み前におささげいたします。アーメン。

 

説教  「空虚な墓

 

(こどもの方へ)

 イエスさまがよみがえられた日、ペトロとイエスさまが愛しておられた弟子が、イエスさまのお墓から石のふたが取り除けられていると知らされました。イエスさまが愛しておられた弟子とは誰か、なぜ名前を書かないのでしょう。それはこのヨハネの福音書を書いたヨハネのことらしいのです(なんか笑えますね)。二人は急いでそこに出かけました。きょうの聖書には、二人が墓の中に入ってみると、イエスさまの体を包んであった布だけがそこにおいてあるのを見たことが書かれていました。ところが、この福音書を書いたヨハネは、9節に、こんなことを書いています。「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」。

 ここで言われている聖書とは、新約聖書のことではありませんよ。旧約聖書のことです。ところが旧約聖書のどこに、このことが書かれているか、分かりにくいのです。

 イースターでいちばん大切なことは、救い主であるイエスさまがよみがえられ、わたしたちに永遠の命という新しい命をくださった、ということです。十字架でわたしたちの罪がゆるされ、新しい人間になって、新しく生きていけるようにしてくださいました。

 このできごとは、たいへんすばらしい意味を持っているので、その意味を知りたい、証拠が欲しいと思うようになると思います。ヨハネさんは、空のお墓を見ることができ、それから後になって、復活されたイエスさまに出会うことができた人です。しかし、後に生まれてくる人のためには文字で書いて残した方が、分かり易いと思ったのでしょう。イエスさまのよみがえりのことについて、聖書は言葉で教えてくれます。イエスさまのお墓を見ることのできなかった人たち、また、この時イエスさまに出会うことのできなかった人たちのために、新約聖書が書かれ、新約聖書全体が、福音書だけでなく、多くの手紙が、そのことを、わかりやすく教えてくれるのです。イエスさまが復活されたこと、それはイエスさまは今も生きておられるこということです。わたしたちも、聖書を読んでいくと、それを感じることができるのです。ありがたいことです。

 イースターは、教会の祝祭日の中で最古の(最も古い)祝祭日です。十字架で死んで、わたしたちを救ってくださったイエスさまが今も生きておられることを祝う日です。今日一日、教会で楽しく過ごし、イースターの思い出を作って帰ってくださいね。

  

讃美歌  322番(21)あるいは147番(1954年版)

 

(おとなの方へ)

 復活の朝がどのような日であったか、今となっては分かりませんが、ただユダヤの安息日の次の日、日曜日であったことは確かなようです。今日のような、よく晴れた日曜日であったかもしれません。主の復活の記述には二つの種類のものがあります。一つは、主イエスが葬られた墓が空であったという報告、もう一つは、復活の主が弟子たちに姿を現されたという報告です。墓の中が空っぽになっていたということと主イエスの復活は直結しないことです。主イエスのご遺体が何者かによって持っていかれたと思われただけでした。13節においても、まだ「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしにはわからない」とマグダラのマリアは言っています。しかし、復活の主がマリアに現れ、両者の間に出会いが生じたという主体的、実存的な事件と墓が空っぽであったという客観的な事件が結び付けられて語られていることは、小さなことではないと思われます。

 キリスト教は宗教ですから、もちろん歴史を越えた、いつでも妥当することがらによって、わたしたちはいつも救いを受けています。しかし、それは紛れもない、この世で起こったことだというのです。この空虚な墓は、わたしたちに馴染みのあるこの歴史の中にぽっかり空いた穴のように、この歴史を越えた出来事が歴史の中で起こったことを、語りかけてくるものです。

 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行きました。他の福音書では、空虚な墓の場面で、最初に墓を訪れたのは、複数の婦人たちであったとありますが、ここではマグダラのマリア一人です。これは、ヨハネによる福音書によく出てきます「個人化」の特徴であると言われます。主イエスとの一対一の出会いの中で、キリストを信じるか信じないかが問われるのです。確かに、この福音書の登場人物は、しばしば固有名詞を持った個人として登場してきます。それは、甘えのない、自立した一人の人間です。そのような者として、神の前に立つのでありますし、また主イエスと一対一で向かい合うことによって、自立した人となるのです。もちろん神さまによる自立ですから、ふつうの人から見たら、非常に自立していないように見えるかもしれない自立です。神さまに頼ったりしている人は自立していない、と思う人もいます。それは、神の前に一人で立つ自立で、「神立」と言ってもよいような自立です。そのような人が、一人でいるのではなく、他者と生きる場所が、教会です。自立していない、甘えを持っている人は、本当に優しい人間にはなれない、とも言われます。教会は、このような優しさに満たされているのが理想と言えます。

 さて、たった一人で、週の初めの日、まだ暗いうちに、墓に行き、空虚な墓を見たマリアの次に、シモン・ペトロと主イエスが愛しておられたもう一人の弟子、多分この福音書の著者であるヨハネが、登場します。この二人は別々の所にいたようですが、マリアは二人に、このことを知らせます。墓に行くこの二人については、妙に詳しく書かれています。この二人は、ペトロの系統の教会、ヨハネの系統の教会をやがて建てていくことになりますが、ここでは、ヨハネの方が墓に早く着いたことが強調されています。遅れて来たペトロですが、墓に先に入ったのはペトロです。次に、ヨハネがこの墓の目撃者となり、信じたと書かれています。何を信じたのか、墓が空であること、主が取り去られたことを信じたということでしょう。

 これら三人の行動を通して、墓が空であることと、間接的に主イエスの復活が記録されています。「そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った」(3―10節)。「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」と書かれています。主の復活を理解しない人も、この空の墓を見ることができたのです。

 旧約聖書に、メシアが死んで復活することが書かれていると言われましても、どこを捜しても、はっきりと見当たりません。それは、極めて間接的な方法で示されているということでしょう。皆さんも、旧約聖書を読んでさがしてください。その一つが、今日お読みしました詩編16編です。

 わたしは、この世に虚無があるということは、何かの喪失体験なく、ずっと思っていたことですから、それは歴史とは関係のない真理だと思っていました。しかし、太平洋戦争、第二次世界大戦における敗戦ということが、日本人にこの虚無を教え、そのような人の中にはキリスト教に入った人がいることを知りました。敗戦ということがなければ、自分はキリスト者にはならなかっただろうと聞いたことがあります。少年期、青年期に、それまで意味のあると思っていたものをすべて失った人たちの虚無です。わたしの年齢の親の世代もそれに当たり、そういえば、何かニヒリスティックな雰囲気というものはあったように思います。三島由紀夫が死をもって証ししたことは、「なにもない」ということではなく、「虚無がある」ということだ、と言われます。詩編16編10節にありますように、敗戦によって墓穴を突きつけられた者、わたしたちの世代のように、この墓穴を抱え込んで、この世に生を受けた者もいることでしょう。今の青少年の穴はもっと小さくなったのでしょうか。大きくなったのでしょうか。その穴を良いもので埋めることができればよいのですが、心配になります。

 二度の世界大戦の前後、主に絵画の分野で、シュールリアリズム(超現実主義)と言われる運動が起こりました。ダリの絵画などです。しかし、キリスト教は、その前から、超現実主義でもあったのです。それは、ヨハネの黙示録が好んで題材にされる以上に、主イエスの激しい神の国が、現実を越えた恵みを語っていたからです。現実を越えるということは、現実がないのではなく、越えるべき現実はとても大切なものだということです。わたしたちは、この世のことばかり気にして、のみこまれてはいけないと言われますが、現実はしっかりと信仰の目を持っても見続ける、そのような信仰生活を、恵みの中で続けたいものです。空虚な墓を前にして、それを思いました。詩編16編10ー11節をもう一度んで終わります。「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく /あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず /命の道を教えてくださいます。 わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い /右の御手から永遠の喜びをいただきます」。

  

(祈り)

とこしえなる神さま

わたしたちのために、御子を遣わし、喜びの福音、平安の福音を与えてくださいましたことを感謝いたします。

どうか、この喜びを人々に与えてください。

既に与えられている人々の、この世を超えた喜びが、また確認されますように。

神を見上げて生きる、神の栄光のために生きるとは、具体的にどうするのか、聖書によって学んでいけますように、お願いいたします。

キリストは復活後、遍在してくださるようになりました。

どうかわたしたちの日常生活の中で、共にいてください。特に病気の人たち、孤独を覚えている人たちと共にいてください。

イースターを祝っている、すべての教会の上に、あなたの豊かな恵みをお祈りします。

今世界の中で、苦しんでいる人たち、悲しんでいる人たちが、たくさんいます。

わたしたちがどう祈ればよいか、またできることを教えてください。

どうか、この時代を救ってくださいますよう、お願いいたします。

感謝、願いを、歴史の中を歩いてくださいました神、主イエス・キリストの御名によって、み前におささげいたします。アーメン。

 

讃美歌 323番(21)1,3,5節あるいは153番(1954年版)

     

日本キリスト教会信仰の告白(→こちらからご覧になれます)

 

聖餐式 

讃美歌 81番(21)1,2節

  

奉献  

讃美歌 65-2番(21)

献金

主の祈り(→こちらからご覧になれます)

 

頌栄 24番(21)あるいは539番(1954年版)

 

派遣と祝福

 

後奏

 

※今週の祈りは「主の復活の恵みを覚えて」です。