4月7日(日)主日礼拝

 

前奏

 

招きの詞 (詩編100:1-3)

全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

喜び祝い、主に仕え

喜び歌って御前に進み出よ。

知れ、主こそ神であると。

主はわたしたちを造られた。

わたしたちは主のもの、その民

主に養われる羊の群れ。

  

頌栄 28番(21)あるいは545番(1954年版)

 

(罪の告白)

あわれみ深い父なる神よ

わたしたちは無知と弱さの故に、また故意に、思いと、言葉と、行いによって、あなたと隣人に対して罪を犯しました。

わたしたちは、お与えくださったあなたの愛と、わたしたちのうちに与えられている神のかたちを傷つけました。

これらの罪のゆえにわたしたちはみ前に悲しみ、恥じ、悔いています。

神は真実な方ですから、わたしたちが罪を言い表すとき、主イエス・キリストのあがないの故に、わたしたちの罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。今、わたしたちは自らの生活をかえりみて、これから1分間の沈黙のうちに、それぞれ自分の罪をみ前に覚えて祈ります。

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わたしたちの罪のために、十字架で死に、よみがえられた御子イエス・キリストの故に、わたしたちの罪をお赦しください。

主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

 

讃美歌 326番(21)あるいは154番(1954年版)

 

聖書 詩編63編2節


 ヨハネによる福音書20章11-18節

 

 

(祈り)

御在天の父なる神さま

あなたの御名を賛美いたします。

今日も礼拝に招いてくださり、感謝いたします。

2000年近く前、安息日を土曜から日曜日に移してから、今このように、日本において、わたしたちが日曜日に礼拝を守り続けています、不思議さと恵みを思い、感謝いたします。

イースターには多くの方々を招いてくださいまして、感謝いたします。

十字架の上で成し遂げられ、復活によって示された驚くばかりの御業を、今日も、わたしたちは語り伝え、あなたからのあふれ出る愛と憐みを受けて、礼拝いたします。

罪に悩む者を救ってください。

人生に疲れた者にも、新しい力を与え、心を弱くしてしまった者にも、再び立ち上がる力を与えてください。

苦しんでいる人たち、悲しんでいる人たちを、訪ねてくださいますよう、お祈りします。

台湾で大きな地震があったと聞きました。被害を受けた人々を顧みてください。支援と祈りを導いてください。

能登半島地震から3か月経ちましたが、今も断水を始め、不自由な生活が続いていると聞きます。避難所で生活をしている人たち、被害のため困難な生活をすることになった人たちを励ましてください。住居や仕事について、支援が行き届きますように願います。

教会の中の、体の病気、心の病気の人たちを、守り、癒してください。

礼拝を守る人々の上に、主の解決と、慰め、希望が与えられますよう、お願いいたします。

来週は、召天者記念礼拝と墓地礼拝を予定しています。

多くのご遺族の方々も招いて、共に礼拝をおささげできますようにお願いいたします。

感謝、願いを、復活の主、イエス・キリストの御名によって、御前におささげいたします。アーメン。

 

説教  「どこに置かれているのか

 

(こどもの方へ)

 マグダラのマリアさんが泣いているところから、始まるお話です。マリアさんは、なぜ泣いていたのでしょう。イエスさまが死んでしまわれ悲しかったのに加えて、そのご遺体を見ようと思って来たのに、それがなくなっていたので、悲しくて泣いていたのです。

 お墓の中を見ると、この前は空っぽだったお墓の中に、二人の天使が見えました。なぜ天使だと分かったかというと、服が真っ白で、たぶん輝いていたからでしょう。この天使たちが、なぜ泣いているの?と尋ねると、マリアは「わたしの主、大事な人が取り去られて、今どこに置かれているのか分からないからです」と答えました。その時何か音がしたのでしょうか、後ろをふりかえると、一人の男の人が立っていました。このお墓は、アリマタヤのヨセフさんの持っていた庭園の中にありました。覚えていますか? 19章41節に書かれています。それで、マリアは、アリマタヤ家の園丁、庭師ではないかと思いました。この人も、なぜ泣いているのか、誰を捜しておるのかと尋ねました。そこで、マリアは「イエスさまをどこかに運び出したのでしたら、どこに置いたのか、どうか教えてください」と言いました。

 この園丁のように見えた人は「マリア」と呼びかけました。マリアはこの声を聞いて、この人が誰であるのか気が付きました。そして、「先生」と言って、イエスさまに抱きつこうとしました。気持ちはわかりますよね。ところが、イエスさまは、それを制して、「わたしにすがりつくのはやめなさい」と言われたのですって。なぜでしょう。この「わたしにすがりつくのはやめなさい」は「わたしに触れてはいけない(ノリメタンゲレ)」という言葉で、ある花の名前になったという伝説があります。ホウセンカのことです。日本では鳳仙花ですが、その花の名前の一つです。ホウセンカは実に少しさわっただけで弾けてしまうからつけられたのだそうです。

 さて「わたしにすがりつくのはよしなさい」。なぜかというと、「まだ父のもとへ上っていないのだから」というのです。これはおかしいと思いませんか。父なる神さまのおられる天に上ったら、すがりつけないじゃありませんか。どういうことなのでしょう。

 たぶん、この時のイエスさまは体を持っておられるからだと思います。もちろん生きておられた時のお体とは違いますが、復活された体を持っておられたから、それにすがりつくのは、正しい信仰ではないということでしょう。イエスさまは、天に昇られてから、体を持たない方として、すがりつきたい人、イエスさまが好きな人、イエスさまに出会いたい人のそばに現れて、出会ってくださるようになったのだと思います。一つの体は、同時に別の所に存在することができませんから。復活されたイエスさまは、その中間のような現れ方をされています。だから、わたしたちは、聖書の中でイエスさまに会った人たちをうらやましがる必要はないのです。

 霊のイエスさま、目に見えないイエスさまに会うことが大事です。そして、もし、霊のイエスさまに出会った時は、すがりついてよいですよ、ということです。みなさんも、いつのまにか、イエスさまを頼りにして生きていることに気が付くという時があるかもしれません。それは、イエスさまにすがりついているということです。そうなったら、一生離さないで、イエスさまに従っていきましょう。

  

讃美歌  325番(21)あるいは148番(1954年版)

 

(おとなの方へ)

 この前まで、教会暦に沿って、礼拝を守ってきました。カトリックとプロテスタントの分かれる前の古い教会暦の聖書の組み合わせがいかに素晴らしいか、味わってきましたが、先週から、中断していましたヨハネによる福音書の連続講解説教の続きをしています。カルバンの聖書注解を使います。そして、これはこれで、これこそプロテスタントの良さというものを感じさせてくれると思います。(連続講解ですから、二、三節ずつしたいところですが、そんなことをしているとペンテコステが来てしまうので、なんとかそれまでに終わらせるために思い悩んでいます。)

 マグダラのマリアとは誰か、復活の主の証人として、パウロの手紙ではなぜかいなかったごとくに扱われています。コリントの信徒への手紙一15章3節から8節に「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」。ですが、ルカによる福音書8章2節には「七つの悪霊を追い出していただいた人」と書かれています。救われた後、主イエスの旅に加わり、ずっと付き従ってきた人です。マグダラとは地名で、ガリラヤ湖のカファルナウムとティベリアスの間にある町です。七つの悪霊を追い出していただいたのを、七つもの病気をいやしていただいたとも取ることができますが、その前の記事に罪深い女の話がありますので、七つの悪徳があったとも言われることがあります。

 マリアにとって、主イエスに従うことは生き甲斐であったと思われます。それが、主イエスの死によって、奪われたのです。泣いていたという言葉から、マリアの悲しみ、絶望が分ります。15節で「わたしがあの方を引き取ります。」と言っていますので、マリアはせめて主のご遺体、死んだ体を引き取り、骨を身近において、これからの生涯を送ろうと思っていたのでしょう。体は朽ち果てていきますが、骨は残るのです。骨はその人でしょうか。愛している人であれば、それだけでも欲しいと思うものでしょう。それすら奪われてしまって、悲しくて、泣いていました。

 そこに、白い衣を着た二人の天使がいました。天使は、バビロン捕囚以後、神の沈黙の時代と言われる時に、ユダヤ教の中に登場してきたと言われます。この天使たちはむしろユダヤ教の中では姿を消し、キリスト教の中に受け継がれ、ご存じのように、ローマ・カトリック教会の中で、壮大に展開されていくことになります。聖書の中では、礼拝の対象ではなく、神の意志や神の言葉の伝え手として登場してきます。この天使との会話の中に「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」というマリアの言葉があります。「婦人よ、なぜ泣いているのか」と天使は質問します。この天使の問は、マリアが立っている場所をはっきり示し、それに疑問符を付けているように読めます。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」。表面的な意味は、主のご遺体がどこに置かれているのか分からない、という意味です。しかし、もう一つの意味は「主イエスが十字架において死ぬことによって、弟子たちやマリアから主が奪い取られた時、イエスが何者であるかということを見失った、ということです。この言葉は、問題提起の言葉、ヨハネ福音書がいつも追求してきた「イエス・キリストはどこにおられるのか」という問です。

 また、ここには、主イエスを求道的に探している人の姿ではなく、もう、一度主イエスに出会ったのに見失ってしまった一つの姿があります。マリアが今見ている視線の方角には主イエスが見えないということ、彼女は主イエスを見ているが分からないという矛盾した言い方で、事柄が指摘されています。「振り向いたこと」が二回言われていますが、マリアの背後から主イエスは語りかけておられます。マリアが見ている方向とは180度反対の方向に、主イエスは立っておられました。

 しかし、やっと見つけた主にマリアが近づこうとすると、主イエスは「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われます。どうしてすがりついてはいけないのかというと、「まだ父のもとに上っていないのだから」というお答えでした。マリアは、地上に主イエスを捜していたが、しかし、すがりつくべき方は天にいるということでしょう。そして、主は続けて、こう言われます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」。マリアは、そうなる前に、その肉体にこそ触れたかったのかもしれません。しかし、素直にそのお言葉に従い、主イエスから言われたことを伝えました。

 このように、高く挙げられた主イエスを、わたしたちは信仰の対象としなければならないことが教えられます。しかし、おかしな言い方がされていました。「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」。主の十字架によって実現しましたことは、創造主であられる、主イエスの父なる神が、わたしたちと和解して父となってくださったということです。罪ある被造物にすぎなかったわたしたちが、神の子と呼んでいただけるようになる、ということです。神が御子を愛したもうその愛を、わたしたちに広げてくださることは、神の御子が天に昇り、再び神の独り子の場所に戻られる時と重なって見えます。

 マリアは地上で復活の主に出会い、このようなことを言われ、めんくらってしまったと思います。しかし、主イエスを地上に捜す人は多いのです。「史的イエス」と言って、聖書を読んで、主イエスの神の子の部分は捨てて、魅力的な一人の人間として、心の拠り所にする人もいるようです。こちらは信仰と関係がないのでよいとして、困るのは、信仰に入り、いったんは目を高く挙げて、天の主イエスを信じたのに、いつの間にか、地上に主イエスを捜すこと、これがわたしたちにはあるということです。

 つまり、ここに登場してくるマグダラのマリアは、主イエスを見失った人の一つの代表です。主イエスを見失う仕方にもいろいろあると思いますが、地上に主イエスを捜して見つからない、地上的なことを主に願ってかなえていただこうとすることを言っていますが、そのようにお願いする人に、主イエスは「わたしにすがりつくのはよしなさい」とは、まさか言われないと思います。主イエスは、わたしたちの生活に役立つこともかなえようとしてくださるでしょう。しかし、その段階にとどまっているのではなく、さらに、目を挙げて、天の父の右におられる主イエスにすがりつく、そのような信仰を、主イエスは求めておられるのだと思います。それは、個々の地上的なものすべてが崩れても揺るがない、主イエス・キリストへの感謝、愛、そこからくる唯一の平安です。地上にいるわたしとあの天のイエス・キリストが関係を持ってくださっている、ただそれだけでいいと、天を見上げる強い信仰に成長したいものだと思います。 

  

(祈り)

天の父なる神さま

マグダラのマリアの姿の中に、大切な人を失った人間の悲しみを見ると同時に、主を時々見失う自分たちの姿を見ます。

どこに置かれているのか、主イエスを捜し求めるわたしたちに、居場所を教えてください。

この地上をどこまで捜しても、そこに神はいまさないことを、わたしたちは、この多神教の国にいて、聖書から教わりました。それにもかかわらず、わたしたちは、この世のことに過度に心を寄せ、失望を味わう愚かさを、いつも繰り返してしまいます。

週に一度の日曜日、神を見失っている人にも、この世のことを忘れて、立ち止まる時を設けてくださいました、あなたの知恵と恵みに感謝いたします。

イエス・キリストはわたしたちの生活の小さなことにも、心の奥深いことにも関わってくださる方であることを感謝します。しかし、主は大きなことのためにも、死んでよみがえられた方であることを信じます。

どうか、主イエスを自分の地上の生活に役立てようと思うことの多い信仰から、天を見上げ、神を喜ぶ、神を喜んでいる自分を喜ぶ、人間中心ではなく神中心の、祝福に満ちた信仰を、わたしたちに与えてくださいますよう、お願い申しあげます。

感謝、願いを、わたしたちの主イエス・キリストのみ名によって、おささげいたします。アーメン。

 

讃美歌 323番(21)1,3,4節あるいは153番(1954年版)1,2,3節

     

日本キリスト教会信仰の告白(→こちらからご覧になれます)

 

聖餐式 

讃美歌 71番(21)1,2,5節

  

奉献  

讃美歌 65-2番(21)

献金

主の祈り(→こちらからご覧になれます)

 

頌栄 24番(21)あるいは539番(1954年版)

 

派遣と祝福

 

後奏

 

※今週の祈りは「召天者記念礼拝と墓地礼拝にご遺族の方々が出席できますように」です。